・・・ その四 ちょうどその日は樽の代り目で、前の樽の口のと異った品ではあるが、同じ価の、同じ土地で出来た、しかも質は少し佳い位のものであるという酒店の挨拶を聞いて、もしや叱責の種子にはなるまいかと鬼胎を抱くこと大方ならず、か・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・肉体が疲れて意志を失ってしまったときには、鎧袖一触、修辞も何もぬきにして、袈裟がけに人を抜打ちにしてしまう場合が多いように思われます。悲しいことですね。この「女の決闘」という小品の描写に、時々はッと思うほどの、憎々しいくらいの容赦なき箇所の・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・けれども、一粒の種子は、確実に残して置きたい。こんな男もいたという事を、はっきり書いて残して置きたい。 君は、だらしが無い。旅行をなさるそうですが、それもよかろう。君に今、一ばん欠けているものは、学問でもなければお金でもない。勇気です。・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・主人公の名前を、かりに、津島修治、とでもして置こう。これは私の戸籍名なのであるが、下手に仮名を用いて、うっかり偶然、実在の人の名に似ていたりして、そのひとに迷惑をかけるのも心苦しいから、そのような誤解の起らぬよう、私の戸籍名を提供するのであ・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・私の本名は、修治というのである。 中畑さんに思いがけなく呼びかけられてびっくりした経験は、中学時代にも、一度ある。青森中学二年の頃だったと思う。朝、登校の途中、一個小隊くらいの兵士とすれちがった時、思いがけなく大声で、「修ッちゃあ!・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・『右者事務室に出頭すべし、津島修治。』文学部事務所にその掲示は久しくかけられてあった。僕は太宰治を友人であるごとくに語り、そして、さびしいおもいをした。太宰治は芸術賞をもらわなかった。僕は藤田大吉という人の作品を決して読むまいと心にちかった・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私たちは隣りの六畳の控えの間に行って、みんなと挨拶を交した。修治は、ちっとも変らぬ。少しふとってかえって若くなった、とみんなが言った。園子も、懸念していたほど人見知りはせず、誰にでも笑いかけていた。みんな控えの間の、火鉢のまわりに集って、ひ・・・ 太宰治 「故郷」
・・・ その、ヒッポの子、ネロが三歳の春を迎えて、ブラゼンバートは石榴を種子ごと食って、激烈の腹痛に襲われ、呻吟転輾の果死亡した。アグリパイナは折しも朝の入浴中なりしを、その死の確報に接し、ものも言わずに浴場から躍り出て、濡れた裸体に白布一枚・・・ 太宰治 「古典風」
・・・牽牛織女のおめでたを、下界で慶祝するお祭りであろうと思っていたのだが、それが後になって、女の子が、お習字やお針が上手になるようにお祈りする夜なので、あの竹のお飾りも、そのお願いのためのお供えであるという事を聞かされて、変な気がした。女の子っ・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・いまも、修治に言っていたのだが、何か不自由なものがあったら、俺の家へ来なさい。なんでもある。芋でも野菜でも米でも、卵でも、鶏でも。馬肉はどうです、たべますか、俺は馬の皮をはぐのは名人なんだ、たべるなら、取りに来なさい、馬の脚一本背負わせてか・・・ 太宰治 「親友交歓」
出典:青空文庫