・・・ 恒藤は又謹厳の士なり。酒色を好まず、出たらめを云わず、身を処するに清白なる事、僕などとは雲泥の差なり。同室同級の藤岡蔵六も、やはり謹厳の士なりしが、これは謹厳すぎる憾なきにあらず。「待合のフンクティオネンは何だね?」などと屡僕を困らせ・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・ されども渠は聞かざる真似して、手早く鎖を外さんとなしける時、手燭片手に駈出でて、むずと帯際を引捉え、掴戻せる老人あり。 頭髪あたかも銀のごとく、額兀げて、髯まだらに、いと厳めしき面構の一癖あるべく見えけるが、のぶとき声にてお通を呵・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・渋味のある朱色でいや味のない古雅な色がなつかしい。省作は玉から連想して、おとよさんの事を思い出し、穏やかな顔に、にこりと笑みを動かした。「あるある、一人ある。おとよさんが一人ある」 省作はこうひとり言にいって、竜の髭の玉を三つ四つ手・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 例えば主食を売っている。闇煙草を売っている。金さえ持って闇市場へ行けば、いつでも、たとえ夜中でも、どこかで米の飯が食べられるし、煙草が買えるのである。といえば、東京の人人は呆れるだろうか、眉をひそめるだろうか、羨ましがるだろうか。・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・溪側にはまた樫や椎の常緑樹に交じって一本の落葉樹が裸の枝に朱色の実を垂れて立っていた。その色は昼間は白く粉を吹いたように疲れている。それが夕方になると眼が吸いつくばかりの鮮やかさに冴える。元来一つの物に一つの色彩が固有しているというわけのも・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ それは麦を主食としている農民たちで、その地方には田がなく、金儲けの仕事もすくなく土地の条件にめぐまれない環境にある人々だ。外米は、内地米あるいは混合米よりもいくらか値段が安いのでそこを見こんで買うのである。これを米屋の番頭から聞きこん・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・神酒をいただきつつ、酒食のたぐいを那処より得るぞと問うに、酒は此山にて醸せどその他は皆山の下より上すという。人馬の費も少きことにはあらざるべきに盛なることなり。この山是の如く栄ゆるは、ここの御神の御使いの御狗というを四方の人々の参り来て乞い・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・麻の葉模様の緑がかった青い銘仙の袷に、やはり銘仙らしい絞り染の朱色の羽織をかさねていた。僕はマダムのしもぶくれのやわらかい顔をちらと見て、ぎくっとしたのである。顔を見知っているというわけでもないのに、それでも強く、とむねを突かれた。色が抜け・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・大きい朱色の額に、きざみ込まれた望富閣という名前からして、ひどくものものしく、たかそうに思われた。「僕も、はじめてなんですが、」幸吉さんも、少しひるんで、そう小声で告白して、それから、ちょっと考えて気を取り直し、「いいんだ。かまわない。・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・煙草屋のおばさんから、バットを五つ受取って、緑のいろばかりで淋しいから、一つお返しして、朱色の箱の煙草と換えてもらったら、お金が足りなくなって困った。おばさんが笑って、あとでまた、と言って下さったので嬉しかった。緑の箱の上に、朱色の箱を一つ・・・ 太宰治 「千代女」
出典:青空文庫