・・・やんごとなき仏にならせわがために死にしこころのそのままにして これは自分の妻をあることで、苦しめ抜いたある真宗信徒の歌である。 夫婦愛というものは少しの蹉跌があったからといって滅びるようなものではつまらない。初めは恋愛か・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・諸宗の信徒たちは憤慨した。中にも念仏信者の地頭東条景信は瞋恚肝に入り、終生とけない怨恨を結んだ。彼は師僧道善房にせまって、日蓮を清澄山から追放せしめた。 このときの消息はウォルムスにおけるルーテルの行動をわれわれに髣髴せしめる。・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・讃美歌が信徒側の人々によって歌われた。正木未亡人は宗教に心を寄せるように成って、先生の奥さんと一緒に讃美歌の本を開けていた。先生は哥林多後書の第五章の一節を読んだ。亡くなった生徒の為に先生が弔いの言葉を述べた時は、年をとった母親が聖書を手に・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・のような一ばんひどかった部分では、あっと言って立ち上ると、ぐらぐらゆれる窓をとおして、目のまえの鉄筋コンクリートだての大工場の屋根瓦がうねうねと大蛇が歩くように波をうつと見るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すは・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・学校は、しんとなった。授業がはじまったのであろう。第二課、アレキサンドル大王と医師フィリップ。むかしヨーロッパにアレキサンドル大王という英雄があった。少女の朗朗と読みあげる声をはっきり聞いた。少年は、うごかなかった。少年は信じていた。あのく・・・ 太宰治 「逆行」
・・・トオキイの音が、ふっと消えて、サイレントに変った瞬間みたいに、しんとなって、天鵞絨のうえを猫が歩いているような不思議な心地にさせられた。狂気の前兆のようにも思われ、気持ちがけわしくなったので、それでも、わざとゆっくりと立ちあがり、お勘定して・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ お祭りのまえの日、というものは、清潔で若々しく、しんと緊張していていいものだ。境内は、塵一つとどめず掃き清められていた。「展覧会の招待日みたいだ。きょう来て、いいことをしたね。」「あたし、桜を見ていると、蛙の卵の、あのかたまり・・・ 太宰治 「春昼」
・・・予期の喝采、起らなかった。しんとなった。つづいてざわざわの潮ざい、「身のほど知らぬふざけた奴。」「神さま、これこそ夢であるように。きゃっ! この劇場には鼠がいますね。」「賤民の増長傲慢、これで充分との節度を知らぬ、いやしき性よ、ああ、あの貌・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・机の前にだまって坐っていると、急に、しんと世界が暗くなって、たしかに眩暈の徴候である。暑熱のために気が遠くなるなどは、私にとって生れてはじめての経験であった。家内は、からだじゅうのアセモに悩まされていた。甲府市のすぐ近くに、湯村という温泉部・・・ 太宰治 「美少女」
・・・ ベナレスの聖地で難行苦行を生涯の唯一の仕事としている信徒を、映画館から映画館、歌舞伎から百貨店と、享楽のみをあさり歩く現代文明国の士女と対照してみるのもおもしろいことである。人生とは何かなどという問題は、世界をすっかり見た上でなければ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(3[#「3」はローマ数字、1-13-23])」
出典:青空文庫