・・・生憎乗客は残っていまいね?」「ええ、一時間ばかり前に立ってしまいました。もっとも馬ならば一匹いますが。」「どこの馬かね?」「徳勝門外の馬市の馬です。今しがた死んだばかりですから。」「じゃその馬の脚をつけよう。馬の脚でもないよ・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・保吉は何かほっとしながら、二三人しか乗客のいないのを幸い、長ながとクッションの上に仰向けになった。するとたちまち思い出したのは本郷のある雑誌社である。この雑誌社は一月ばかり前に寄稿を依頼する長手紙をよこした。しかしこの雑誌社から発行する雑誌・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・勿論異教徒たる乗客の中には一人も小天使の見えるものはいない。しかし五六人の小天使は鍔の広い帽子の上に、逆立ちをしたり宙返りをしたり、いろいろの曲芸を演じている。と思うと肩の上へ目白押しに並んだ五六人も乗客の顔を見廻しながら、天国の常談を云い・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ 裾を曳いて帳場に起居の女房の、婀娜にたおやかなのがそっくりで、半四郎茶屋と呼ばれた引手茶屋の、大尽は常客だったが、芸妓は小浜屋の姉妹が一の贔屓だったから、その祝宴にも真先に取持った。……当日は伺候の芸者大勢がいずれも売出しの白粉の銘、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・興酣なる汐時、まのよろしからざる処へ、田舎の媽々の肩手拭で、引端折りの蕎麦きり色、草刈籠のきりだめから、へぎ盆に取って、上客からずらりと席順に配って歩行いて、「くいなせえましょう。」と野良声を出したのを、何だとまあ思います?・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・が、そうすると、深山の小駅ですから、旅舎にも食料にも、乗客に対する設備が不足で、危険であるからとの事でありました。 元来――帰途にこの線をたよって東海道へ大廻りをしようとしたのは、……実は途中で決心が出来たら、武生へ降りて許されない事な・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・とともに送られたる五七人の乗客を載了りて、観音丸は徐々として進行せり。 時に九月二日午前七時、伏木港を発する観音丸は、乗客の便を謀りて、午後六時までに越後直江津に達し、同所を発する直江津鉄道の最終列車に間に合すべき予定なり。 この憐・・・ 泉鏡花 「取舵」
汽車がとまる。瓦斯燈に「かしはざき」と書いた仮名文字が読める。予は下車の用意を急ぐ。三四人の駅夫が駅の名を呼ぶでもなく、只歩いて通る。靴の音トツトツと只歩いて通る。乗客は各自に車扉を開いて降りる。 日和下駄カラカラと予の先きに三人・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・かれは、吉弥との関係上初めは井筒屋のお得意であったが、借金が嵩んで敷居が高くなるに従って、かのうなぎ屋の常客となった。しかしそこのおかみさんが吉弥を田島に取り持ったことが分ってから、また里見亭に転じたのだ。そこでしくじったら、また、もう少し・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・その中に乗っている乗客は、たいてい遠いところへ旅をする人々でした。この人たちは、みんな疲れて居眠りをしています。けれど、汽車だけは休まずに走りつづけています。」と、下界のようすをくわしく知っている星は答えました。「よく、そう体が疲れずに・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
出典:青空文庫