・・・――おい、君、こうなればもう今夜の会費は、そっくり君に持って貰うぜ。」 飯沼は大きい魚翅の鉢へ、銀の匙を突きこみながら、隣にいる和田をふり返った。「莫迦な。あの女は友だちの囲いものなんだ。」 和田は両肘をついたまま、ぶっきらぼう・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・同時にまた顔は稲川にそっくりだと思ったと言うことです。 半之丞は誰に聞いて見ても、極人の好い男だった上に腕も相当にあったと言うことです。けれども半之丞に関する話はどれも多少可笑しいところを見ると、あるいはあらゆる大男並に総身に智慧が廻り・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・母は二人ともよく寝たもんだというような事を、母らしい愛情に満ちた言葉でいって、何か衣裳らしいものを大椅子の上にそっくり置くと、忍び足に寝台に近よってしげしげと二人の寝姿を見守った。そして夜着をかけ添えて軽く二つ三つその上をたたいてから静かに・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・それが絵ごとそっくり田舎の北国新聞に出ている。即ち僕が「冠弥左衛門」を書いたのは、この前年であるから、ちょうど一年振りで、二度の勤めをしている訳である。 そこでしばらく立って読んで見ていると、校正の間違いなども大分あるようだから、旁々こ・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・絵に描いた河童そっくりだ。」 と、なぜか急に勢づいた。 絵そら事と俗には言う、が、絵はそら事でない事を、読者は、刻下に理解さるるであろう、と思う。「畜生。今ごろは風説にも聞かねえが、こんな処さ出おるかなあ。――浜方へ飛ばねえでよ・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・見ると、なるほど、牛肉屋の前に白い毛に日の丸の斑のはいった、ペスそっくりの犬がいました。「ペスかしらん。」と、正ちゃんは、駆け出してゆきました。あとから、みんながつづきました。しかし、その犬は、ペスと兄弟のように似ていたけれど、やはり、・・・ 小川未明 「ペスをさがしに」
・・・私はその人を命の恩人と思い、今は行方は判らぬが、もしめぐり会うことがあれば、この貯金通帳をそっくり上げようと名義も秋山にして、毎月十日に一円ずつ入れることにしたのです。十日にしたのはあの中之島公園の夜が八月十日だったのと、私の名が十吉だった・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ むかし道修町の薬問屋に奉公していたことがあるというし、また、調合の方は朝鮮の姉が肺をわずらって最寄りの医者に書いてもらっていた処方箋を、そっくりそのまま真似てつくったときくからは、一応うなずけもしたが、それにしてもそれだけの見聞でひと・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・「早く暖かくなってくれないかなあ!……」と、自分はほとんど機械的にこう呟く。…… やがて、新モスの小ぎれ、ネル、晒し木綿などの包みを抱えて、おせいは帰ってきた。「そっくりで、これで六円いくらになりましたわ。綿入り二枚分と、胴着と・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・その巌丈な石の壁は豪雨のたびごとに汎濫する溪の水を支えとめるためで、その壁に刳り抜かれた溪ぎわへの一つの出口がまた牢門そっくりなのであった。昼間その温泉に涵りながら「牢門」のそとを眺めていると、明るい日光の下で白く白く高まっている瀬のたぎり・・・ 梶井基次郎 「温泉」
出典:青空文庫