・・・と覚悟していたが、しかし、久し振りで防空服装を解いて寝て、わずかに安堵するかせぬうちに、またもや身ごしらえして車を引き、妻子を連れて山の中の知らない家の厄介になりに再疎開して行くのは、何とも、どうも、大儀であった。 頑張って見ようじゃな・・・ 太宰治 「薄明」
・・・自由に達して始めて物の本末を認識し、第一義と第二義を判別し、末節を放棄して大義に就くを得るということを説いたのには第百十二段、第二百十一段などのようなものがある。反対にまた、心の自由を得ない人間の憐むべく笑うべくまた悲しむべき現象を記録した・・・ 寺田寅彦 「徒然草の鑑賞」
・・・と言ったら、一間ばかりあとを雪駄を引きずりながら、大儀そうについて来た妻は、エヽと気のない返事をして無理に笑顔をこしらえる。この時始めて気がついたが、なるほど腹の帯の所が人並みよりだいぶ大きい。あるき方がよほど変だ。それでも当人は平気でくっ・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・そして如何にも疲れ切って大儀なからだを無理に元気を出して、捨鉢に歩いてでもいるような気がした。何だかいたいたしいような心地がした。黒の中折を冠った下から黒い髪の毛が両耳の上に少しかぶさっていたように思う。こんな記憶が今かなりはっきり浮んで来・・・ 寺田寅彦 「中村彝氏の追憶」
・・・しかしB教授はどういうものかなんとなしに元気がなく、また人に接するのをひどく大儀がるようなふうに見えた。 それから二三日たって、箱根のホテルからのB教授の手紙が来て、どこか東京でごく閑静な宿を世話してくれないかとのことであった。たしか、・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・社会親睦、人類相愛の大義に背くものというべし。 また、一方の学者においても、世間の風潮、政談の一方に向うて、いやしくも政を語る者は他の尊敬を蒙り、またしたがって衣食の道にも近くして、身を起すに容易なるその最中に、自家の学問社会をかえりみ・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・かつまた、文脩まれば武備もしたがって起り、仏人、牆に鬩げども外その侮を禦ぎ、一夫も報国の大義を誤るなきは、けだしその大本、脩徳開知独立の文教にあり。今我邦に私塾を立つるも、この趣意を達せんとするなり。その得、五なり。 右所論の得失を概し・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・ただし国君官吏たる者も、自から労して自から食うの大義を失わずして、その所労の力とその所得の給料と軽重いかんを考えざるべからず。これすなわち君臣の義というものか。 右は人間の交の大略なり。その詳なるは二、三枚の紙につくすべからず、必ず書を・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
・・・往古、我が王朝の次第に衰勢に傾きたるも、在朝の群臣、その内行を慎まずして私徳を軽んじ、内にこれを軽んじて外に公徳の大義を忘れ、その終局は一身の私権、戸外の公権をも併せて失い尽したるものならんのみ。されば今日の政治家が政事に熱心するも、単に自・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・ 然るに爰に遺憾なるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新の事起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢の一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るを悟り、敵に向てかつて抵抗を試みず、ひたす・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
出典:青空文庫