・・・この落ちたという事実に対して、諸君は必ず笑われるに違いない。しかし倫理的に申したならば、人が落ちたというに笑うはずがない、気の毒だという同情があって然るべきである、殊に私のような招かれて来た者に対する礼儀としても笑うのは倫理的でない事は明で・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・御互いに開化と云う言葉を使っておって、日に何遍も繰返しているけれども、はたして開化とはどんなものだと煎じつめて聞き糺されて見ると、今まで互に了解し得たとばかり考えていた言葉の意味が存外喰違っていたりあるいはもってのほかに漠然と曖昧であったり・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・その関係でときどき自分の家に出はいるところからしぜん重吉とも知り合いになって、会えば互いに挨拶するくらいの交際が成立した。けれども二人の関係はそれ以上に接近する機会も企てもなく、ほとんど同じ距離で進行するのみにみえた。そうして二人ともそれ以・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・同じく愛を主とした他力宗であっても、猶太教から出た基督教はなお、正義の観念が強く、いくらか罪を責むるという趣があるが、真宗はこれと違い絶対的愛、絶対的他力の宗教である。例の放蕩息子を迎えた父のように、いかなる愚人、いかなる罪人に対しても弥陀・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・と思うに違いないだろう。そうすれば、今の私のヒロイックな、人道的な行為と理性とは、一度に脆く切って落されるだろう、私は恐れた。恥じた。 ――俺はこの女に対して性慾的などんな些細な興奮だって惹き起されていないんだ。そんな事を考える丈けでも・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・世人が毎度いう通りに、まさしく人は万物の霊にして、生まれ落ちし始めより、種類も違い、階級にも斯くまで区別のあることなれば、その仕事にもまた区別なかるべからず。人に恵まれたる物を食らいて腹を太くし、あるいは駆けまわり、あるいは噛み合いて疲るれ・・・ 福沢諭吉 「家庭習慣の教えを論ず」
・・・その相伴うや、相共に親愛し、相共に尊敬し、互いに助け、助けられ、二人あたかも一身同体にして、その間に少しも私の意を挟むべからず。即ち男女居を同じうするための要用にして、これを夫婦の徳義という。もしも然らずして、相互いに疎んじ相互いに怨んでそ・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・だから、誉められても標準に無交渉なので嬉しくもなければ、譏られても見当違いだから、何の啓発される所もなかった。いわば、自分で独り角力を取っていたので、実際毀誉褒貶以外に超然として、唯だ或る点に目を着けて苦労をしていたのである。というのは、文・・・ 二葉亭四迷 「余が翻訳の標準」
・・・六つも年上の若後家の前だからでございましたのね。六つ違いますわねえ。おまけに男のかたが十七で、高等学校をお出になったばかりで、後家はもう二十三になっているのですから、その六つが大した懸隔になったのも無理はございませんね。そんな風にしていまし・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・お前達が自分で真の泉の辺の真の花を摘んでいながら、己の体を取り巻いて、己の血を吸ったに違いない。己は人工を弄んだために太陽をも死んだ目から見、物音をも死んだ耳から聴くようになったのだ。己は何日もはっきり意識してもいず、また丸で無意識でもいず・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫