・・・それからお前にいうておくことがある、おれにもたいした事はできんけれど、おれも村の奴らに欲が深い深いといわれたが、そのお蔭で五、六年丹精の結果が千五百円ばかりできてる。これをお前にやる分にゃ先祖の財産へ手を付けんのだから、おれの勝手だ。お前も・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・て朝草も刈るのかと思ったら、おれは可哀そうでならなかった、それでおれは今鎌を買いに松尾へ往くのだが、日中は熱いからと思ってこんなに早く出掛けてきたのさ、それではお前の分にも一丁買ってきてやるから、折角丹誠してくれやて、云ったら何んでも眼をう・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・ 丹精して、野菜を作っていられたお祖父さんは、「おどろいたなあ。」と、おっしゃったけれど、木は、そんなことに関係なく、ぐんぐんと大きくなりました。そして、三年目からは、ほんとうに、実がたくさんなりました。 吉雄くんの植えたいちじ・・・ 小川未明 「いちじゅくの木」
・・・私の丹誠で助けたいと思っている。」と、おじいさんは答えました。 こうしたやさしいおじいさんでありますから、小さいもの、弱いものに対して、平常からしんせつでありました。「正坊はどうしたか。」と、帰るとすぐに、孫のことをききました。・・・ 小川未明 「おじいさんが捨てたら」
・・・ひとの羨むような美女でも、もし彼女がウェーブかセットを掛けた直後、なまなましい色気が端正な髪や生え際から漂っている時は、私はよしんば少しくらい惚れていても、顔を見るのもいやな気がする。私は今では十五分も女が待てない。女とそれきり会えないと判・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・て侠気があって、美男で智恵があって、学問があって、先見の明があって、そして神明の加護があって、危険の時にはきっと助かるというようなものであったり、美女で智慮が深くて、武芸が出来て、名家の系統で、心術が端正で、というようなものであったりするの・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・「森さんのおかあさんが丹精してくだすったごちそうもある――下諏訪の宿屋からとうさんの提げて来た若鷺もある――」「こういう田舎にいますと、酒をやるようになります。」と、森さんが、私に言ってみせた。「どうしても、周囲がそうだもんですから。」・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・丁度、国から持って来た着物の中には、胴だけ剥いで、別の切地をあてがった下着があった。丹精して造ったもので、縞柄もおとなしく気に入っていた。彼女はその下着をわざと風変りに着て、その上に帯を締めた。 直次の娘から羽織も掛けて貰って、ぶらりと・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・そのとしの秋、ジッドのドストエフスキイ論を御近所の赤松月船氏より借りて読んで考えさせられ、私のその原始的な端正でさえあった「海」という作品をずたずたに切りきざんで、「僕」という男の顔を作中の随所に出没させ、日本にまだない小説だと友人間に威張・・・ 太宰治 「川端康成へ」
・・・能面のごとき端正の顔は、月の光の愛撫に依り金属のようにつるつるしていました。名状すべからざる恐怖のため、私の膝頭が音たててふるえるので、私は、電気をつけようと嗄れた声で主張いたしました。そのとき、高橋の顔に、三歳くらいの童子の泣きべそに似た・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫