・・・田舎者の自分の目には先生の家庭がずいぶん端正で典雅なもののように思われた。いつでも上等の生菓子を出された。美しく水々とした紅白の葛餅のようなものを、先生が好きだと見えてよく呼ばれたものである。自分の持って行く句稿を、後には先生自身の句稿とい・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・手術の際にO教授が、露出された遺骸の胸に手のひらをあてて Noch warm ! と言って一同をふり向いたとき、領事といっしょにここまでついて来ていた婦人の一人の口からかすかなしかし非常に驚いたような嘆声がもれた。O教授はしかし「これはよく・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・こんにゃく屋さん、これはうちの旦那さまが丹精していらッしゃるお菜園だよ、ホンとにまァ」 奥さんは、私の足もとから千切れた茄子の枝をひろいあげると、いたましそうにその紫色の花をながめている。私もほんとに申訳ないことをしたと思った。私も子供・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・それでもそれは単に彼一人の丹精ではなくて壻の文造が能くぶつぶついわれながら使われた。お石が来なくなってから彼は一意唯銭を得ることばかり腐心した。其年は雨が順よく降った。彼はいつでも冬季の間に肥料を拵えて枯らして置くことを怠らなかった。西瓜の・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ところが奥さんのせっかくの丹精がいっこう活きておりません。積極的にと云うと言い過ぎるかも知れぬけれども、暗に人から瞞されて、働かないでもすんだところを、無理に馬鹿気た働きをした事になっているから、奥さんの実着な勤勉は、精神的にも、物質的にも・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・時々アーアーという歎声を漏らす人もある。一週間の碇泊とは随分長い感じがする。甲板から帰って来た人が、大山大将を載せた船は今宇品へ向けて出帆した、と告げた時は誰も皆妬ましく感じたらしい。この船は我船より後れて馬関へはいったのである。殊に第二軍・・・ 正岡子規 「病」
・・・ 第一、今の今まで女王だとか、お前のおかげだとか、わいわい騒いでいた者達が、話せ話せと云って身の上話をさせながら、話し手が我と泣き倒れる程血の出るような事実を語っているのに、歎声一つ発しない冷淡さが事実あるだろうか。 自分達が云うだ・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・ただ、丹精な、いつも仕事をしていた御隠居という印象が、大した情も伴わずあるだけなのだ。 二日目の通夜が、徐々朝になりかけて来ると、私は今日限りの別れが云いようなく惜まれて来た。早朝の寒い空気の中で御蝋燭を代え、暫く棺を見守り、父の処へ行・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
・・・そして百余日にわたる牢獄生活、これを通じまして天野検事がその時にもらされました一ツの嘆声が実はこの三鷹事件の本質であったということを感じてきたのであります。」「それでは吉田政府の枠とは何だ、私は労働者であり、日本共産党員であります。われわれ・・・ 宮本百合子 「それに偽りがないならば」
・・・またあの柔かな雛罌粟が壺にささって微風に赤々と揺らめくと、妻はかすかな歎声を洩して眺めていた。この四角な部屋に並べられた壺や寝台や壁や横顔や花々の静まった静物の線の中から、かすかな一条の歎声が洩れるとは。彼は彼女のその歎声の秘められたような・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫