・・・コウ、もう煮奴も悪くねえ時候だ、刷毛ついでに豆腐でもたんと買え、田圃の朝というつもりで堪忍をしておいてやらあ。ナンデエ、そんな面あすることはねえ、女ッ振が下がらあな。「おふざけでないよ、寝ているかとおもえば眼が覚めていて、出しぬけに床ん・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・何処かの田圃の方からでも伝わって来るような、さかんな繁殖の声は人に迫るように聞えるばかりでなく、医院の庭に見える深い草木の感じまでが憂鬱で悩ましかった。「何だか俺はほんとに狂にでも成りそうだ」 とおげんは半分串談のように独りでそんな・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・高い白壁の蔵が並んだ石垣の下に接して、竹薮や水の流に取囲かれた位置にある。田圃に近いだけに、湿気深い。「お早う」 と高瀬は声を掛けて、母屋の横手から裏庭の方へ来た。 深い露の中で、学士は朝顔鉢の置並べてある棚の間をあちこちと歩い・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・甲府市外の湯村温泉、なんの変哲もない田圃の中の温泉であるが、東京に近いわりには鄙びて静かだし、宿も安直なので、私は仕事がたまると、ちょいちょいそこへ行って、そこの天保館という古い旅館の一室に自らを閉じこめて仕事をはじめるということにしていた・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・駅から一丁ほど田圃道を歩いて、撮影所の正門がある。白いコンクリートの門柱に蔦の新芽が這いのぼり、文化的であった。正門のすぐ向いに茅屋根の、居酒屋ふうの店があり、それが約束のミルクホールであった。ここで待って居れ、と言われた。かれは、その飲食・・・ 太宰治 「花燭」
・・・お酌の女は何の慾もなく、また見栄もなく、ただもう眼前の酔いどれの客を救おうとして、こん身の力で大尉を引き起し、わきにかかえてよろめきながら田圃のほうに避難します。避難した直後にはもう、神社の境内は火の海になっていました。 麦を刈り取った・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・町から東のO村まで二里ばかりの、樹蔭一つない稲田の中の田圃道を歩いて行った。向うへ着いたときに一同はコップに入れた黄色い飲料を振舞われた。それは強い薬臭い匂と甘い味をもった珍しい飲料であった。要するにそれは一種の甘い水薬であったのである。も・・・ 寺田寅彦 「さまよえるユダヤ人の手記より」
・・・草原の草を縛り合わせて通りかかった人を躓かせたり、田圃道に小さな陥穽を作って人を蹈込ませたり、夏の闇の夜に路上の牛糞の上に蛍を載せておいたり、道端に芋の葉をかぶせた燈火を置いて臆病者を怖がらせたりと云ったような芸術にも長じていた。月夜に往来・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
大正十二年八月二十四日 曇、後驟雨 子供等と志村の家へ行った。崖下の田圃路で南蛮ぎせるという寄生植物を沢山採集した。加藤首相痼疾急変して薨去。八月二十五日 晴 日本橋で散弾二斤買う。ランプの台に入れるため。・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・見はらしのきく頂上へきて、岩の上にひざを抱いてすわると、熊本市街が一とめにみえる。田圃と山にかこまれて、樹木の多い熊本市は、ほこりをあびてうすよごれてみえた。裁判所の赤煉瓦も、避雷針のある県庁や、学校のいらかも、にぶく光っている坪井川の流れ・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫