・・・ 愛人とか何とか、そんなものでは無い。私がそのひとのお母さんを知っていて、そうしてそのお母さんは、或る事情で、その娘さんとわかれわかれになって、いまは東北のほうで暮しているのである。そうして時たま私に手紙を寄こして、その娘の縁談に就いて・・・ 太宰治 「朝」
・・・ 津島修治は、東京都下の或る町の役場に勤めていた。戸籍係りである。年齢は、三十歳。いつも、にこにこしている。美男子ではないが血色もよく、謂わば陽性の顔である。津島さんと話をしておれば苦労を忘れると、配給係りの老嬢が言った事があるそうだ。・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・東京都下三鷹町。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。 忘れているところもあるかも知れないが、これだけでも既に二十五回の転居である。いや、二十五回の破産である。私は、一年に二回ずつ破産してはまた出発し直して生きて来ていたわけである。そうしてこれ・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・何をするにも、努力とか勉強とか云うことをしたことがない。そのくせ人に取り入ろうと思うと、きっと取り入る。決して失敗したことがない。 この二人は大抵極まった隅の卓に据わる。そしてコニャックを飲む。往来を眺める。格別物を考えはしない。 ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・と、今日は不思議にも平生の様に反抗とか犠牲とかいう念は起こらずに、恐怖の念が盛んに燃えた。出発の時、この身は国に捧げ君に捧げて遺憾がないと誓った。再びは帰ってくる気はないと、村の学校で雄々しい演説をした。当時は元気旺盛、身体壮健であった。で・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それに対して一々何とか返事を出さなければならないのである。外国から講演をしに来てくれと頼まれる。このような要求は研究に熱心な学者としての彼には迷惑なものに相違ないが、彼は格別厭な顔をしないで気永に親切に誰にでも満足を与えているようである。・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・これは実に愉快な読み物であったが、さすがにこのごろはそういうのは、少なくも都下の新聞にはまれなようである。しかし、本質的にはこれと同様な記事は今でも日々の新聞に捜せばいくらでも発見されるのである。 ある役所で地方技術官の集合があって、そ・・・ 寺田寅彦 「ジャーナリズム雑感」
・・・ こんな実験をやっている矢先に都下の有力な新聞で旬刊が発行されるようになった。私の思考実験の一半はすでに現実化されたようでもあるが、残る半分すなわち日刊の廃止という事はちょっと実現される蓋然性が乏しい。 しかし旬刊週刊等の発行によっ・・・ 寺田寅彦 「一つの思考実験」
・・・そこは床屋とか洗濯屋とかパン屋とか雑貨店などのある町筋であった。中には宏大な門構えの屋敷も目についた。はるか上にある六甲つづきの山の姿が、ぼんやり曇んだ空に透けてみえた。「ここは山の手ですか」私は話題がないので、そんなことを訊いてみた。・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ ――こんにゃはァ、こんにゃはァ、 ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところで、ふしをつけて平気で怒鳴れるようになるまでには、どんなに辛い思いをすることか。 私だってまだ少年だから恥ずかしい。はじめの・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
出典:青空文庫