・・・るまに、その瓦の大部分が、どしんとずりおちる、あわてて外へとび出すはずみに、今の大工場がどどんとすさまじい音をたてて、まるつぶれにたおれて、ぐるり一ぱいにもうもうと土烟が立ち上る、附近の空地へにげようとしてかけ出したものの、地面がぐらぐらう・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・今お前さんのそうしてつくねんとしているところを見ると、わたしその連中を見た時のような心持がするわ。今になって思って見ればね、お前さんはあの約束をおしの人を亭主に持った方が好かったかも知れないと思うわ。そら。あの時そういったの・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・奥さんは聖ヨハネの祭日にむすめに着せようとして、美しい前掛けを縫っていました。むすめはお母さんの足もとの床の上にすわって、布切れの端を切りこまざいて遊んでいました。「なぜパパは帰っていらっしゃらないの」 とその小さい子がたずねます。・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・これを一読するに、温乎として春風のごとく、これを再読するに、凜乎として秋霜のごとし。ここにおいて、余初めて君また文壇の人たるを知る。 今この夏、またこの書を稿し、来たりて余に詢るに刊行のことをもってす。よってこれに答えて曰く。この文をも・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・父親のバニカンタは、却って他の娘達より深くスバーを愛しましたが、母親は、自分の体についた汚点として、厭な気持で彼女を見るのでした。 例え、スバーは物こそ云えないでも、其に代る、睫毛の長い、大きな黒い二つの眼は持っていました。又、彼女の唇・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ けれども、そんなことして、あの女工さん、おどろき、おそれてふっと声を失ったら、これは困る。無心の唄を、私のお礼が、かえって濁らせるようなことがあっては、罪悪である。私は、ひとりでやきもきしていた。 恋、かも知れなかった。二月、寒い・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・そこで珍らしい人物ばかり来るこの店でさえ、珍らしい人物として扱われるようになったのである。この男がその壮遊をしたのは、富籤に当ったのではない。また研究心に促されて起ったのでもない。この店の給仕頭は多年文士に交際しているので、人物の鑑識が上手・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・満洲の野は荒漠として何もない。畑にはもう熟しかけた高粱が連なっているばかりだ。けれど新鮮な空気がある、日の光がある、雲がある、山がある、――すさまじい声が急に耳に入ったので、立ち留まってかれはそっちを見た。さっきの汽車がまだあそこにいる。釜・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・仕事が科学上の事であるだけにその成果は極めて鮮明であり、従ってそれを仕遂げた人の科学者としてのえらさもまたそれだけはっきりしている。 レニンの仕事は科学でないだけに、その人のその仕事の遂行者としてのえらさは必ずしも目前の成果のみで計量す・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・私はしばらく大阪の町の煤煙を浴びつつ、落ち着きのない日を送っていたが、京都を初めとして附近の名勝で、かねがね行ってみたいと思っていた場所を三四箇所見舞って、どこでも期待したほどの興趣の得られなかったのに、気持を悪くしていた。古い都の京では、・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
出典:青空文庫