・・・「ああいうところは、どうしても次郎ちゃんだ。」 と、宿屋の亭主は快活に笑った。 ややもすれば兄をしのごうとするこの弟の子供を制えて、何を言われても黙って順っているような太郎の性質を延ばして行くということに、絶えず私は心を労しつづ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・私は一体どうして日々を送っているか。全くのその日暮し、その時勝負でやっているのだろうか。あながちそうでもないようである。事実、自分の日常生活を支配しているものは、やっぱり陳い陳い普通道徳にほかならない。自分の過去現在の行為を振りかえって見る・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・なんの目的で河が流れているかは知れないが、どうしても目的がありそうである。この男等の生涯も単調な、疲労勝な労働、欲しいものがあっても得られない苦、物に反抗するような感情に富んでいるばかりで、気楽に休む時間や、面白く暮す時間は少ないのであるが・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・双親は、どうしてこんな家がひょっこり建ったのだろうとふしぎでたまりませんでした。ウイリイは、「これはきっといつかのおじいさんが私にくれた贈物にちがいない。」こう言って、ポケットから例の鍵を出して、戸口の鍵穴へはめて見ますと、ちょうどぴっ・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・「どうして雲雀は海の上なんぞで鳴くんでしょう」 と子どもが聞きました。「海があんまり緑ですから、雲雀は野原だと思っているんでしょう」 とおかあさんは説き明かしました。 とたちまち霧は消えてしまって、空は紺青に澄みわたって・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・人は、生活に破れかけて来ると、どうしても何かの予言に、すがりつきたくなるものでございます。悲しいことでございます。その辻占は、あぶり出し式になって居ります。博士はマッチの火で、とろとろ辻占の紙を焙り、酔眼をかっと見ひらいて、注視しますと、は・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・チルナウエルの身になっては、どうして好いか分からない。 竜騎兵中尉も消え失せたようにいなくなった。いつも盛んな事ばかりして、人に評判せられたものが、今はどこにいるか、誰も知らない。 * * ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
渠は歩き出した。 銃が重い、背嚢が重い、脚が重い、アルミニウム製の金椀が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく刺戟するので、幾度かそれを直してみたが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。もう厭になってしまっ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・眼の中には異様な光がある。どうしても自分の心の内部に生活している人の眼である。」「彼が壇上に立つと聴衆はもうすぐに彼の力を感ずる。ドイツ語がわかる分らぬは問題でない。ともかくも力強く人に迫るある物を感ずる。」「重大な事柄を話そうとす・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・「どうして未だなかなか。」「七十幾歳ですって?」「七十三になりますがね。もう耳が駄目でさ。亜鉛屋根にパラパラと来る雨の音が聞えなくなりましたからね、随分不断に使った躯ですよ。若い時分にゃ宇都宮まで俥ひいて、日帰りでしたからね。あ・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫