・・・彼はどれ程警察署や監獄署に恐怖の念を懐いたろう。彼はそれからげっそり窶れて唯とぼとぼとした。事件は内済にするには彼の負担としては過大な治療金を払わねばならぬ。姻戚のものとも諮って家を掩いかぶせた其の竹や欅を伐ることにした。彼は監獄署へ曳かれ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・しかし筆者自身がぽろぽろ涙を落して書かぬ以上は御嬢さんが、どれほど泣かれても、読者がどれほど泣かれなくても失敗にはならん。小供が駄菓子を買いに出る。途中で犬に吠えられる。ワーと泣いて帰る。御母さんがいっしょになってワーと泣かぬ以上は、傍人が・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・クララ遠き代の人に語る如き声にて君が恋は何れの期ぞと問う。思う人の接吻さえ得なばとクララの方に顔を寄せる。クララ頬に紅して手に持てる薔薇の花を吾が耳のあたりに抛つ。花びらは雪と乱れて、ゆかしき香りの一群れが二人の足の下に散る。…… Drue・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・今日は世界は具体的であり、実在的であるのである。今日は何れの国家民族も単に自己自身によって存在することはできぬ、世界との密接なる関係に入り込むことなくして、否、全世界に於て自己自身の位置を占めることなくして、生きることはできぬ。世界は単なる・・・ 西田幾多郎 「世界新秩序の原理」
・・・支那人はみんな兵隊だった。どれも辮髪を背中にたれ、赤い珊瑚玉のついた帽子を被り、長い煙管を口にくわえて、悲しそうな顔をしながら、地上に円くうずくまっていた。戦争の気配もないのに、大砲の音が遠くで聴え、城壁の周囲に立てた支那の旗が、青や赤の総・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・「どれ、兎に角、帰ることにしようか、オイ、俺はもう帰るぜ」 私は、いつの間にか女の足下の方へ腰を、下していたことを忌々しく感じながら、立ち上った。「おめえたちゃ、皆、ここに一緒に棲んでいるのかい」 私は半分扉の外に出ながら振・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・細い板の上にそれらのどれかをくくりつけ、先の方に三本ほど、内側にまくれたカギバリをとりつける。そして、オモリをつけて沈めておくと、タコはその白いものに向かって近づいて来る。食べに来るわけではなく、どういう考えか知らないが、白いものの上に坐る・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・もしおめえの云うような値打の物なら、二人で生涯どんな楽な暮らしでも出来るのだ。どれ、もう一遍おれに見せねえ。」 爺いさんは目を光らせた。「なに、おれの宝石を切るのだと。そんな事が出来るものか。それは誰にも出来ぬ。第一おれが不承知だ。こん・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・又学者の説に、医学医術等には男子よりも女子を適当なりとして女医教育の必要を唱え、現に今日にても女医の数は次第に増加すと言う。何れの方面より見ても婦人の天性を無智なりと明言して之を棄てんとするは、女大学記者の一私言と言う可きのみ。 又女は・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ けだし慶応義塾の社員は中津の旧藩士族に出る者多しといえども、従来少しもその藩政に嘴を入れず、旧藩地に何等の事変あるも恬として呉越の観をなしたる者なれば、往々誤て薄情の譏は受るも、藩の事務を妨げその何れの種族に党するなどと評せられたること・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
出典:青空文庫