・・・「はっと思って、眼がさめると、坊主はやっぱり陀羅尼三昧でございます。が、何と云っているのだか、いくら耳を澄ましても、わかりませぬ。その時、何気なく、ひょいと向うを見ると、常夜燈のぼんやりした明りで、観音様の御顔が見えました。日頃拝みなれ・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・お嬢さんははっとした彼を後ろにしずしずともう通り過ぎた。日の光りを透かした雲のように、あるいは花をつけた猫柳のように。……… 二十分ばかりたった後、保吉は汽車に揺られながら、グラスゴオのパイプを啣えていた。お嬢さんは何も眉毛ばかり美しか・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・この紀元節に新調した十八円五十銭のシルク・ハットさえとうにもう彼の手を離れている。……… 保吉は人のこみ合ったプラットフォオムを歩きながら、光沢の美しいシルク・ハットをありありと目の前に髣髴した。シルク・ハットは円筒の胴に土蔵の窓明りを・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・ もうパオロの胸に触れると思った瞬間は来て過ぎ去ったが、不思議にもその胸には触れないでクララの体は抵抗のない空間に傾き倒れて行った。はっと驚く暇もなく彼女は何所とも判らない深みへ驀地に陥って行くのだった。彼女は眼を開こうとした。しかしそ・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ あまり爪尖に響いたので、はっと思って浮足で飛び退った。その時は、雛の鶯を蹂み躙ったようにも思った、傷々しいばかり可憐な声かな。 確かに今乗った下らしいから、また葉を分けて……ちょうど二、三日前、激しく雨水の落とした後の・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ と優しい声を聞いて、はっとした途端に、真上なる山懐から、頭へ浴びせて、大きな声で、「何か、用か。」と喚いた。「失礼!」 と言う、頸首を、空から天狗に引掴まるる心地がして、「通道ではなかったんですか、失礼しました、失礼で・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 省作は、はっとしたけれど例のごとく穏やかな笑いをして政さんの方へ向く。政さんは快活に笑って三つの繩をなってしまった。省作が二つ終えないうちに政さんはちょろり三つなってしまった。満蔵は二俵目の米を倉から出してきて臼へ入れてる。おはまは芋・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ 父親は、はっと驚きました。だれが、それをいったのだろうと、くるくると頭をあたりにまわしてみましたけれど、あたりには、だれも歩いているものはなかったのです。また、だれも自分の胸の中で思っていることを知り得るはずはなかったのでありました。・・・ 小川未明 「幾年もたった後」
・・・少年は、はっと思って顔を上げますと、先にゆくのはおばあさんでありました。おばあさんは、自分がなにか落としたのも気づかずに、つえをついてゆきかかりましたから、少年は、うしろから、おばあさんを呼び止めました、「おばあさん、なにか落ちましたよ・・・ 小川未明 「石をのせた車」
・・・私ははっと眼をあけた。蜘蛛の眼がキラキラ閃光を放って、じっとこちらを見ているように思った。夜なかに咳が出て閉口した。 翌朝眼がさめると、白い川の眺めがいきなり眼の前に展けていた。いつの間にか雨戸は明けはなたれていて、部屋のなかが急に軽い・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫