・・・……参詣の散った夜更には、人目を避けて、素膚に水垢離を取るのが時々あるから、と思うとあるいはそれかも知れぬ。 今境内は人気勢もせぬ時、その井戸の片隅、分けても暗い中に、あたかも水から引上げられた体に、しょんぼり立った影法師が、本堂の正面・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
成東の停車場をおりて、町形をした家並みを出ると、なつかしい故郷の村が目の前に見える。十町ばかり一目に見渡す青田のたんぼの中を、まっすぐに通った県道、その取付きの一構え、わが生家の森の木間から変わりなき家倉の屋根が見えて心も・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・おとよさんとおはまの風はたしかに人目にとまるのである。まアきれいな稲刈りだこととほめるものもあれば、いやにつくってるなアとあざけるものもある。おはまのやつが省作さんに気があるからおかしいやというようなのも聞こえる。おはまはじろり悪口いう方を・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・民子はその後時折僕の書室へやってくるけれど、よほど人目を計らって気ぼねを折ってくる様な風で、いつきても少しも落着かない。先に僕に厭味を云われたから仕方なしにくるかとも思われたが、それは間違っていた。僕等二人の精神状態は二三日と云われぬほど著・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・今更残念でならぬ。僕は民子が嫁にゆこうがゆくまいが、ただ民子に逢いさえせばよいのだ。今一目逢いたかった……次から次と果てしなく思いは溢れてくる。しかし母にそういうことを言えば、今度は僕が母を殺す様なことになるかも知れない。僕は屹と心を取り直・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・アアいう人目に着く粧いの婦人に対してはとかくにあらぬ評判をしたがるもんだから、我々は沼南夫人に顰蹙しながらも余りに耳を傾けなかった。が、沼南の帰朝が近くなるに従って次第に風評が露骨になって、二、三の新聞の三面に臭わされるようになった。 ・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・しかし、その願いもかまわないばかりか、せめて、そのお姉さんの顔を一目でもいいから見たいものだと思いました。「お母さま、そのお姉さんは、どんなお方でしたの?」と、のぶ子は、どうかして、そのかわいがってくださったお姉さんを、できるだけよく知・・・ 小川未明 「青い花の香り」
・・・けれど、姿が変わっているので、恥ずかしがって顔を外へ出しませんでした。けれど、一目その娘を見た人は、みんなびっくりするような美しい器量でありましたから、中にはどうかしてその娘を見たいと思って、ろうそくを買いにきたものもありました。 おじ・・・ 小川未明 「赤いろうそくと人魚」
・・・ 彼はせめて貨車の中にでも身を隠すことができたら、幸福だと考えましたので、人目をしのんで、貨車に乗り込もうとしますと、中から、思いがけなく、「だれだ?」と声がしました。そして大男が龍雄をとらえました。龍雄はもう逃れる途はないと知・・・ 小川未明 「海へ」
・・・「自分のような人目をひかない花には、どうして、そんなに空想するような、きれいなちょうがきて止まることがあろう?」 こう、花は悲しく笑ったこともありました。重い荷を車に積んでゆく、荷馬車の足跡や、轍から起こる塵埃に頭が白くなることもあ・・・ 小川未明 「くもと草」
出典:青空文庫