・・・貴殿一人が悪いではないが、エーイ、癪に触る一世の姿。」「訳のよく分らぬことを仰せあるが、右膳申したる旨は御取あげ無いか。」「…………」「必ず御用いあることと存じて、大事も既に洩らしたる今、御用いなくば、後へも前へも、右膳も、臙脂・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・しかし日頃信頼する医者の許に一夜を送って、桑畠に続いた病室の庭の見える雨戸の間から、朝靄の中に鶏の声を聞きつけた時は、彼女もホッとした。小山の家のある町に比べたら、いくらかでも彼女自身の生まれた村の方に近い、静かな田舎に身を置き得たという心・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・大谷さんみたいな人となら、私は一夜でもいいから、添ってみたいわ。私はあんな、ずるいひとが好き」「これだからねえ」 と矢島さんは、連れのお方のほうに顔を向け、口をゆがめて見せました。 その頃になると、私が大谷という詩人の女房だとい・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・父はその昔、一世を驚倒せしめた、歴史家です。二十四歳にして新聞社長になり、株ですって、陋巷に史書をあさり、ペン一本の生活もしました。小説も書いたようです。大町桂月、福本日南等と交友あり、桂月を罵って、仙をてらう、と云いつつ、おのれも某伯、某・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・その手術で物理学は一夜に若返った。そして電磁気や光に関する理論の多くの病竈はひとりでに綺麗に消滅した。 病源を見つけたのが第一のえらさで、それを手術した手際は第二のえらさでなければならない。 しかし病気はそれだけではなかった。第一の・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・この鯨絵巻の写しや、硯石で昔から知られた行当岬のスケッチや、祖先の出身だという一世一海和尚の墓の絵などが郷里の家に保存してあったはずであるが、いつの前にかもう無くなってしまったか、それともまだ倉の中のどこかに隠れているか不明である。 こ・・・ 寺田寅彦 「初旅」
・・・日本はまるで筍のように一夜の中にずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したといおうか、むしろ狂気といおうか、――狂気でも宜い――狂気の快は不狂者の知る能わざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るる人情の大潮流であ・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・その頃わたくしは押川春浪井上唖々の二亡友と、外神田の妓を拉して一夜紫明館に飲んだことを覚えている。四五輛の人力車を連ねて大きな玄関口へ乗付け宿の女中に出迎えられた時の光景は当世書生気質中の叙事と多く異る所がなかったであろう。根津の社前より不・・・ 永井荷風 「上野」
・・・吉原は大江戸の昔よりも更に一層の繁栄を極め、金瓶大黒の三名妓の噂が一世の語り草となった位である。 両国橋には不朽なる浮世絵の背景がある。柳橋は動しがたい伝説の権威を背負っている。それに対して自分は艶かしい意味においてしん橋の名を思出す時・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・しかし自分は無論己れを一世の大詩人に比して弁解しようというのではない。唯晩年には Sagesse の如き懺悔の詩を書いた人にも或時はかかる事実があったものかと不思議に感じた事を語るに過ぎぬのである。 私は毎年の暑中休暇を東京に送り馴れた・・・ 永井荷風 「夏の町」
出典:青空文庫