・・・そして子供のない兄の病床の寂しさを思いながら、辰之助と連れ立ってそこを辞した。 ステイションへは多勢来ていた。二人の姉もふみ江も来ていた。宗匠もおひろも見えたが、道太はそれでもお絹が来ておりはしないかと、乗ってからもあたりに目を配ってい・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・わたくしは病床で『真書太閤記』を通読し、つづいて『水滸伝』、『西遊記』、『演義三国志』のような浩澣な冊子をよんだことを記憶している。病中でも少年の時よんだものは生涯忘れずにいるものらしい。中年以後、わたくしは、機会があったら昔に読んだものを・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・揚州十年の痴夢より一覚する時、贏ち得るものは青楼薄倖の名より他には何物もない。病床の談話はたまたま樊川の詩を言うに及んでここに尽きた。 縁側から上って来た鶏は人の追わざるに再び庭に下りて頻に友を呼んでいる。日暮の餌をあさる鶏には、菓子鉢・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・それから一日二日して自分はその三人の病症を看護婦から確めた。一人は食道癌であった。一人は胃癌であった、残る一人は胃潰瘍であった。みんな長くは持たない人ばかりだそうですと看護婦は彼らの運命を一纏めに予言した。 自分は縁側に置いたベゴニアの・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・殊に病気の時など医師に対して自から自身の容態を述ぶるの法を知らず、其尋問に答うるにも羞ずるが如く恐るゝが如くにして、病症発作の前後を錯雑し、寒温痛痒の軽重を明言する能わずして、無益に診察の時を費すのみか、其医師は遂に要領を得ずして処方に当惑・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
植物学の上より見たるくだものでもなく、産物学の上より見たるくだものでもなく、ただ病牀で食うて見たくだものの味のよしあしをいうのである。間違うておる処は病人の舌の荒れておる故と見てくれたまえ。○くだものの字義 くだもの、という・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・ 去年の夏も過ぎて秋も半を越した頃であったが或日非常な心細い感じがして何だか呼吸がせまるようで病牀で独り煩悶していた。此時は自己の死を主観的に感じたので、あまり遠からん内に自分は死ぬるであろうという念が寸時も頭を離れなかった。斯ういう時・・・ 正岡子規 「死後」
・・・ 去年この紀行が『二六新報』に出た時は炎天の候であって、余は病牀にあって病気と暑さとの夾み撃ちに遇うてただ煩悶を極めて居る時であったが、毎日この紀行を読む事は楽しみの一つであった。あるいは山を踰え谿に沿いあるいは吹き通しの涼しき酒亭に御・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・行路病者として運びこまれた乞食の臨終に立ちあった彼女は、その優れた資質によってイギリス国王の病床にも侍しました。乞食であろうと国王であろうと、人間の病気とその苦悩、治癒と死の過程は、ひとしく人類の通る道です。しかし、病気そのものは一つでも、・・・ 宮本百合子 「生きるための協力者」
・・・ 一幕目で、朋輩の饒舌に仲間入りもせず、裏からお絹の舞台を一心に見ているところ、お絹が病気になってから、芝居の端にも、心は病床の主人にひかれている素振りが見え、真情に迫った。 ただ、一幕目で、お絹が舞台で倒れて担がれて来た時、無目的・・・ 宮本百合子 「気むずかしやの見物」
出典:青空文庫