・・・煤だらけな顔をした耄碌頭巾の好い若い衆が気が抜けたように茫然立っていた。刺子姿の消火夫が忙がしそうに雑沓を縫って往ったり来たりしていた。 泥塗れのビショ濡れになってる夜具包や、古行李や古葛籠、焼焦だらけの畳の狼籍しているをくものもあった・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・が、子女の父兄は教師も学校も許す以上はこれを制裁する術がなく、呆然として学校の為すままに任して、これが即ち文明であると思っていた。 自然女学校は高砂社をも副業とした。教師が媒酌人となるは勿論、教師自から生徒を娶る事すら不思議がられず、理・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・その日は風もなく、波も穏やかな日であったから、沖のかなたはかすんで、はるばると地平線が茫然と夢のようになって見えました。白い雲が浮かんでいるのが、島影のようにも、飛んでいる鳥影のようにも見えたのであります。 お姉さまは、いい声でうたいな・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・ いろいろのことを思って、茫然としていましたからすは、不意に石が飛んできたので、びっくりして立ち上がりました。そして、木の枝に止まって下をながめますと、子供らは、なお自分を目がけて石を投げるのであります。 からすはしかたなく、その社・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
・・・に点呼当日長髪のまま点呼場へ出頭した者は、バリカンで頭の半分だけ刈り取られて、おまけに異様な姿になった頭のままグランドを二十周走らされ、それが終ると竹刀で血が出るくらいたたかれるらしいという噂は、私を呆然とさせた。東京にいる友人からの手紙に・・・ 織田作之助 「髪」
・・・蝶子は気抜けした気持でしばらく呆然としたが、これだけのことは柳吉にくれぐれも頼んだ。――父親の息のある間に、枕元で晴れて夫婦になれるよう、頼んでくれ。父親がうんと言ったらすぐ知らせてくれ。飛んで行くさかい。 蝶子は呉服屋へ駆け込んで、柳・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・――チチシスアサ七ジウエノツク――私はガアーンと頭を殴られた気がして、呆然としてしまった。底知れない谷へでも投りこまれたような、身辺いっさいのものの崩落、自分の存在の終りが来たような感じがした。「どうかなすったんですか?」と、お婆さんは・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ 次の日奥の一室にて幸衛門腕こまぬき、茫然と考えているところへお絹在所より帰り、ただいまと店に入ればお常はまじめな顔で『叔父さんが奥で待っていなさるよ、何か話があるって。』お絹にも話あり、いそいそと中庭から上がれば叔父の顔色ただ・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・日はとっぷり暮れたが月はまだ登らない、時田は燈火も点けないで片足を敷居の上に延ばし、柱に倚りかかりながら、茫然外面をながめている。『先生!』梅ちゃんの声らしい、時田は黙って返事をしない。『オヤいないのだよ』と去ってしまった、それから五分・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・それだのに、そのあてがはずれてしまった。呆然とした。 新規の測量で、新しく敷地にかゝったものは喜んだ。地主も、自作農も、――土地を持っている人間は、悲喜交々だった。そいつを、高見の見物をしていられるのは、何にも持たない小作人だ。「今・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
出典:青空文庫