・・・未来の可能性は、それがどんなに現在の凡人に無稽に見えても実は現在の可能性のほんのわずかの延長にしか過ぎないからである。人間の飽くことなき欲望がこの可能性の外被を外へ外へと押して行くと、この外被は飴のようにどこまでもどこまでも延長して行くので・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・それはとてもできそうもないし、かりにそれができたとした時に私はおそらく超人の孤独と悲哀を感じなければなるまい。凡人の私はやはり子猫でもかわいがって、そして人間は人間として尊敬し親しみ恐れはばかりあるいは憎むよりほかはないかもしれない。・・・ 寺田寅彦 「子猫」
・・・尊崇している偉人や大家がたちまちにして凡人以下になったりするのではだれでも不愉快である。大概の錯覚は永久にだいじにそっとしておくほうがいいかもしれない。ただ事がらが自然科学の事実に関する限り、それを新聞社会欄の記事として錯覚的興味をそそるこ・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・かなり勝手を知った盗賊であろうという事であったが、結局犯人は見いだされなかった。この、姿を見せないで大きな結果だけを残して行った「盗賊」と、形は見えないがわが家の生活に大きな変化をもたらした「げじげじ」とが幼時の記憶の中で親密に握手をしてい・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・このダンサーは後に昔の情夫に殺されるための役割でこの喜劇に招集されたもので、それが殺されるのはその殺人罪の犯人の嫌疑をこの靴磨きの年とった方、すなわち浅岡了介に背負わせるという目的のために殺されなければならないことになっている。しかも、その・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・ 先生が、もう少しだらしのない凡人であってくれたら、そうしたらおそらくもう少し長生きをされて、そうしてもう少し長く後進のためにもめんどうを見てくださることができ、また先生としてももう少しのどかな生涯を送られたではないかという気がすること・・・ 寺田寅彦 「田丸先生の追憶」
・・・にしおりを感じたのは畢竟曇らぬ自分自身の目で凡人以上の深さに観照を進めた結果おのずから感得したものである。このほかには言い現わす方法のない、ただ発句によってのみ現わしうるものをそのままに発句にしたのである。 寂びしおりを理想とするという・・・ 寺田寅彦 「俳諧の本質的概論」
・・・彼は偉大な凡人である。モンテーンがフランス人にこういう物の見方考え方を教えたともいえるであろう。そこからラ・ブリュイエルやヴォーヴナルグなどのいわゆるモラリストへ行くこともできるが、途はメーン・ドゥ・ビランやベルグソンの哲学へも通ずるのであ・・・ 西田幾多郎 「フランス哲学についての感想」
・・・ヘッヘッ、消防組、青年団、警官隊総出には、兎共は迷惑をしたこったろうな。犯人は未だ縛につかない、か。若し捕ってりゃ偽物だよ。偽物でも何でも捕えようと思って慌ててるこったろう。可哀相に、何も知らねえ奴が、棍棒を飲み込みでもしたように、叩き出さ・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・彼自ら詠じて曰く吾歌をよろこび涙こぼすらむ鬼のなく声する夜の窓灯火のもとに夜な夜な来たれ鬼我ひめ歌の限りきかせむ人臭き人に聞する歌ならず鬼の夜ふけて来ばつげもせむ凡人の耳にはいらじ天地のこころを妙に洩らすわがうた・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
出典:青空文庫