・・・――ここはまさか、娘を売物にしとる家じゃないんだろうな。」 コーリヤが扉のかげから現れて来た。窓から屋内へ這入ろうとするかのように、よじ上っている武石を見ると、彼は急に態度をかえて、「いけない! いけない!」叱るように、かすれた幅の・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・そうしたらあいつの事だから、まさかおらが亡くなったっておらの墓を草ん中に転げさせてしまいもすめえと思うのさ。前の嚊にこそ血筋は引け、おらには縁の何も無いが、おらあ源三が可愛くって、家へ帰るとあいつめが叔父さん叔父さんと云いやがって、草鞋を解・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・と言いかけて、学士は思い出したように笑って、「まさか、子供に向って、そんなに食うな、三杯位にして控えて置けなんて、親の身としては言えませんからナ……」 包み隠しの無い話は高瀬を笑わせた。学士は更に、「ホラ、勇の下に女の児が居ましょう・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・つい口を開けて物を言えば、己の身の上が分からないことはあるまい。まさか町の奴等のように人を下目に見はすまい。みんなで少しずつ出し合ってくれたら、汽車賃が出来るに違いない。」 一群は丁度爪先上がりになっていた道を登って、丘の上に立ち留まっ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・肉屋がのぞいて見ますと、中には二十ぴきばかりの犬がごろごろしています。まさか、うちの犬はいないだろうな、と、よく見ようとするとたんに、「わうわう。」と、かなしそうなうなり声を上げた犬がいます。肉屋は、おやッとびっくりしました。うちの犬がつか・・・ 鈴木三重吉 「やどなし犬」
・・・わたしがお前さんを撃ち殺すかと思ったの。まさかお前さんがそんなことを思うだろうとは、わたし思わなくってよ。それはわたしが途中から出てあの座に雇われたのだから、お前さんの方でわたしを撃つのなら、理屈があるわね。お前さんだって、わたしがあの地位・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・れっからしと来ているのでございますから、たかが華族の、いや、奥さんの前ですけれども、四国の殿様のそのまた分家の、おまけに次男なんて、そんなのは何も私たちと身分のちがいがあろう筈が無いと思っていますし、まさかそんな、あさましく、くわっとなった・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・襟を棄ててから、もう四時間たっている。まさか襟がさきへ帰ってはいまいとは思いながら、少しびくびくものでホテルへ帰った。さも忙しいという風をしてホテルの門を通り掛かった。門番が引き留めた。そしてうやうやしく一つの包みを渡すのである。同じ紙で包・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・そうしてその燃えがらをつまみ上げ、子細らしい手つきで巻き紙を引きやぶって中味の煙草を引き出したと思うといきなりそれを口中へ運んだ。まさかと思ったがやはりその煙草を味わっているのである。別にうまそうでもないが、しかしまたあわてて吐き出すのでも・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・一体、小説なんぞ書こうという女はどんな着物を着ているんだか、ちょっと見当がつかない。まさか誰も彼もまがいの大嶋と限ったわけでもなかろうからね。」「僕にも近頃流行るまがい物の名前はわからない。贋物には大正とか改良とかいう形容詞をつけて置け・・・ 永井荷風 「十日の菊」
出典:青空文庫