・・・二人は用意して来た出刃で毛皮を剥きはじめた。出刃が喉から腹の中央を過ぎて走った。ぐったりとなった憐れな赤犬は熟睡した小児が母の手に衣物を脱がされるように四つの足からそうして背部へと皮がむかれた。致命の打撲傷を受けた頸のあたりはもう黒く血が凝・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・男は容易に答えぬ。「女の贈り物受けぬ君は騎士か」とエレーンは訴うる如くに下よりランスロットの顔を覗く。覗かれたる人は薄き唇を一文字に結んで、燃ゆる片袖を、右の手に半ば受けたるまま、当惑の眉を思案に刻む。ややありていう。「戦に臨む事は大小・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・栄誉ある多数の学者中より今年はまず木村氏だけを選んで、他は年々順次に表彰するという意を当初から持っているのだと弁解するならば、木村氏を表彰すると同時に、その主意が一般に知れ渡るように取り計うのが学者の用意というものであろう。木村氏が五百円の・・・ 夏目漱石 「学者と名誉」
・・・単にそれだけを主張するならば、何事にも反対好きな人は容易に否定するであろうという。デカルトは此に人に説くためにということを主として考えているようであるが、徹底的な懐疑的自覚、何処までも否定的分析ということは、哲学そのものに固有な、哲学という・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・その深遠な理由は、思想が人間性の苦悩の底へ、無限に深くもぐりこんで抜けないほどに根を持つて居るのと、多岐多様の複雑した命題が、至るところで相互に矛盾し、争闘し、容易に統一への理解を把握することができないこと等に関聯して居る。ニイチェほどに、・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・よしや仮令いおしゃべり多言にても、僅に此一事を根拠にして容易に離縁とは請取り難し。第七物を盗む心あるは去ると言う。物を盗むにも軽重あり。唯この文字に由て離縁の当否を断ず可らず。民法の親族編など参考にして説を定む可し。 右第一より七に至る・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 世人往々この事実を知らずして、政治の思想要用なりといえば、たちまち政治家の有様を想像して、己れ自から政壇にのぼりて政をとるの用意し、生涯政事の事業をもって身を終らんと覚悟するもの多し。学問といえばたちまち大学者を想像して、生涯、書に対・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・されば意の未だ唱歌に見われぬ前には宇宙間の森羅万象の中にあるには相違なけれど、或は偶然の形に妨げられ或は他の意と混淆しありて容易には解るものにあらず。斯程解らぬ無形の意を只一の感動に由って感得し、之に唱歌といえる形を付して尋常の人にも容易に・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・この際余は口の内に一種の不愉快を感ずると共に、喉が渇いて全く潤いのない事を感じたから、用意のために枕許の盆に載せてあった甲州葡萄を十粒ほど食った。何ともいえぬ旨さであった。金茎の露一杯という心持がした。かくてようように眠りがはっきりと覚めた・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・旦那でもない訳だが、それは六十に余る達者な親父があって、その親父がまた慾ばりきったごうつくばりのえら者で、なかなか六十になっても七十になっても隠居なんかしないので、立派な一人前の後つぎを持ちながらまだ容易に財産を引き渡さぬ、それで仕方なしに・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
出典:青空文庫