・・・私の様子に、娘も驚いて、「どうしたの、お母さん?」といゝました。私は、どうしたの、こうしたのじゃない、まア、まア、お前の体は何んとしたことだといゝました。いゝながら人前だったが、私は半分泣いていた。身体中いたる所に紫色のキズがついている。・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・まだまだ心怯れて宝の山へ入りながらその手を空しくそっと引き退け酔うでもなく眠るでもなくただじゃらくらと更けるも知らぬ夜々の長坐敷つい出そびれて帰りしが山村の若旦那と言えば温和しい方よと小春が顔に花散る容子を御参なれやと大吉が例の額に睨んで疾・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・しかし、肝心の相談となると首を傾げてしまって、唯々姉の様子を見ようとばかりしていた。おげんに言わせると、この弟達の煮え切らない態度は姉を侮辱するにも等しかった。彼女は小山の家の方の人達から鋏を隠されたり小刀を隠されたりしたことを切なく思った・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・その様子が自分の前を歩いているものを跡からこづいて、立ち留らせて、振返えらせようとするようである。 しかし誰もこの老人に構っているものはない。誰も誰も自分の事を考えている。自分の不平を噛み潰しているのである。みな頭と肩との上に重荷を載せ・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ディオニシアスは、獄卒に言いつけて、たえずデイモンの容子を見張りをさせておきました。しかしデイモンは、いつまでたってもちょっとも不安そうな容子を見せませんでした。「私はピシアスを信じている。ピシアスは立派な人だ。決してうそはつかない。も・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・それだからなんとなくお前さんはわたしに対して不平らしい様子をするのだろうと思うわ。前からそんな心持がしてよ。それはそうと、兎に角今夜はちょっと内へおいでな。そしてわたし共に対して意地を悪くしていないところを見せるが好いわ。少・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・その百姓は深い所にはいって、頭の上に六尺も土のある様子はまるで墓のあなの底にでもいるようでした。 あなの中にいて、大空も海も牧場も見ないこんな人こそは、きっと天国に行きたいにちがいないと思いましたから、鳩は木の枝の上で天国の歓喜を鳩らし・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・此をお読みになる時は、熱い印度の、色の黒い瘠せぎすな人達が、男は白いものを着、女は桃色や水色の薄ものを着て、茂った樹かげの村に暮している様子を想像して下さい。 女の子が、スバシニと云う名を与えられた時、誰が、彼女の唖なことを思い・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ 秋になると、蜻蛉も、ひ弱く、肉体は死んで、精神だけがふらふら飛んでいる様子を指して言っている言葉らしい。蜻蛉のからだが、秋の日ざしに、透きとおって見える。 秋ハ夏ノ焼ケ残リサ。と書いてある。焦土である。 夏ハ、シャンデリヤ。秋・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・ さてこの一切の物を受け取って、前に立っている銀行員を、ポルジイ中尉は批評眼で暫く見て、余り感心しない様子で云った。「君も少し姿勢がどうかならんかねえ。気を附けて見給え。損の行かない話だ。」 これは少し冤罪であった。勿論この銀行・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
出典:青空文庫