・・・ その独白「あの人は来るのかしら、来ないのかしら。よもや来ない事はあるまいと思うけれど、もうかれこれ月が傾くのに、足音もしない所を見ると、急に気でも変ったではあるまいか。もしひょっとして来なかったら――ああ、私はまる・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・それも憚らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。 しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然と口を噤んでいました。「返事をしないか。――しないな。好し。し・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
・・・なんだって浮いていたのを見つけたんだもの、よもや池とは思わないから、いちばんあとで池を見たら浮いていたんですもの、という。 それでも息を吹き返すこともやと思いながら、浮いておったということは、落ちてから時間のあることを意味するから、妻は・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・虫が知らせるとでもいうのか、これが生涯の別れになろうとは、僕は勿論民子とて、よもやそうは思わなかったろうけれど、この時のつらさ悲しさは、とても他人に話しても信じてくれるものはないと思う位であった。 尤も民子の思いは僕より深かったに相違な・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・おとよ、よもやお前に異存はあるまいの」 おとよは人形のようになってだまってる。「おとよ、異存はねいだの。なに結構至極な所だからきめてしまってもよいと思ったけど、お前はむずかしやだからな、こうして念を押すのだ。異存はないだろう」 ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 一〇 吉弥は、よもや、僕がたびたび勧め、かの女も十分決心したと言ったことを忘れはしまい。よしんば、親が承知しないで、その決心――それも実は当てにならない――をひる返すことがあるにしろ、一度はそれを親どもに話さないこ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 若し其処のが負傷者なら、この叫声を聴いてよもや気の付かぬ事はあるまい。してみれば、これは死骸だ。味方のかしら、敵のかしら。ええ、馬鹿くさい! そんな事は如何でも好いではないか? と、また腫はれまぶたを夢に閉じられて了った。 先・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・春以来二三度独参したことがあるがいつも頭からひやかされるので、すっかり悄げていっこうに怠けているのだが、しかしこうした場合のことだから、よもや老師はお見捨てはなさるまい、自分は老師の前に泣きひれ伏しても、何らか奇蹟的な力を与えられたいと、思・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・そのたびに彼はそれがカフェで話し合った青年によもやちがいがないだろうと思い、自分の心に企らんでいる空想に、そのたび戦慄を感じた。「あれは俺の空想が立たせた人影だ。俺と同じ欲望で崖の上へ立つようになった俺の二重人格だ。俺がこうして俺の二重・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ S―は最初、ふとした偶然からその女に当り、その時、よもやと思っていたような異様な経験をしたのであった。その後S―はひどく酔ったときなどは、気持にはどんな我慢をさせてもという気になってついその女を呼ぶ、心が荒くなってその女でないと満足で・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
出典:青空文庫