・・・その時沖を見ていた人の話に、霧のごとく煙のような燐火の群が波に乗って揺らいでいたそうな。測られぬ風の力で底無き大洋をあおって地軸と戦う浜の嵐には、人間の弱い事、小さな事が名残もなく露われて、人の心は幽冥の境へ引寄せられ、こんな物も見るのだろ・・・ 寺田寅彦 「嵐」
一 何もない空虚の闇の中に、急に小さな焔が燃え上がる。墓原の草の葉末を照らす燐火のように、深い噴火口の底にひらめく硫火の舌のように、ゆらゆらと燃え上がる。 焔の光に照らされて、大きな暖炉の煤けた・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・ ジュセッポの家で時ならぬ嵐が起って隣家の耳をそばだてさせる事も珍しくない。アクセントのおかしいイタリア人の声が次第に高くなる。そんな時は細君のことをアナタが/\と云う声が特別に耳立って聞える。嵐が絶頂になって、おしまいに細君の啜り泣き・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ 子供の時分に私の隣家に信心深い老人がいた。彼は手足に蚊がとまって吸おうとするのを見つけると、静かにそれを追いのけるという事が金棒引きの口から伝えられていた。そしてそれが一つの笑い話の種になっていた。私も人並みに笑ってはいたが、その老人・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・ 月や太陽が三十メートルさきの隣家の屋根にのっかっている品物であったらそれはたしかに盆大である。しかし実際は二億二千八百万キロメートルの距離にある直径百四十万キロメートルの火の玉である。 ヘルムホルツは薄暮に眼前を横ぎった羽虫を見て・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・下女がいなければ、隣家へ饋ればよいという人があるかも知れぬが、下女さえさびしさに堪兼ねて逃去るような家では、近隣とは交際がない。啻にそれのみではない。わたくしは人の趣味と嗜性との如何を問わず濫に物を饋ることを心なきわざだと考えている。・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・例えば隣家は頻りに繁昌して財産も豊なるに、我家は貧乏の上に不仕合のみ打続く、羨ましきことなり憎らしきことなり、隣翁が何々の方角に土蔵を建てゝ鬼瓦を上げたるは我家を睨み倒さんとするの意なり、彼の土蔵が火事に焼けたらば面白からん、否な人の見ぬ間・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・人事の失望は十に八、九、弟は兄の勝手に外出するを羨み、兄は親爺の勝手に物を買うを羨み、親爺はまた隣翁の富貴自在なるを羨むといえども、この弟が兄の年齢となり、兄が父となり、親爺が隣家の富を得るも、決して自由自在なるに非ず、案に相違の不都合ある・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・無心の小児が父を共にして母を異にするの理由を問い、隣家には父母二人に限りて吾が家に一父二、三母あるは如何などと、不審を起こして詰問に及ぶときは、さすが鉄面皮の乃父も答うるに辞なく、ただ黙して冷笑するか顧みて他を言うのほかなし。即ちその身の弱・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・いきれ人死をると札の立つ秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者鹿ながら山影門に入日かな鴫遠く鍬すゝぐ水のうねりかな柳散り清水涸れ石ところ/″\水かれ/″\蓼かあらぬか蕎麦か否か我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす 一句五字ま・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫