・・・そして黒い上衣と光るシルクハットとのために、綺麗に髯を剃った、秘密らしい顔が、一寸廉立った落着を見せている。 やはり廉立ったおちつきを見せた頭附をして検事の後の三人目の所をフレンチは行く。 監獄の廊下は寂しい。十五人の男の歩く足音は・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・そして、いつも皇子は、黒のシルクハットをかぶり、燕尾服を着ておいでになります。そして片目なので、黒の眼鏡をかけておいでになるということです。」と申しあげました。 お姫さまは、これを聞くと、前の家来の申したこととたいそう違っていますので、・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・たとえば、正面切った大官の演説内容よりも、演説の最中に突如として吹き起った烈風のために、大官のシルクハットが吹き飛ばされたという描写の方を、読者はしばしば興味をもって読みがちである。 実は、その出来事が新聞に載らなかったのは、たった一人・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・甲府は、もっとハイカラである。シルクハットを倒さまにして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。きれいに文化の、しみとおっているまちである。 早春のころに、私はここで、しばらく仕事をしていたことがある・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・ドック近くの裏町の門々にたたずむ無気味な浮浪人らの前をいばって通り抜けて川岸へくると護岸に突っ立ったシルクハットのだぶだぶルンペンが下手な掛け図を棒でたたきながら Die Moriat von Mackie Messer を歌っている。伴奏・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・それはとにかく、この絵の中のロンドン、リーディング間の郵便馬車の馬丁がシルクハットをかぶってそうしてやはり角笛を吹いている。そうして自分の「記憶」の夢の中では、この郵便馬車と、銀座の鉄道馬車とがすっかり一つに溶け合ってしまって、切っても切れ・・・ 寺田寅彦 「銀座アルプス」
・・・牛肉配達などが日曜になるとシルクハットでフロックコートなどを着て澄している。しかし一般に人気が善い。我輩などを捕えて悪口をついたり罵ったりするものは一人もおらん。ふり向いても見ない。当地では万事鷹揚に平気にしているのが紳士の資格の一つとなっ・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・フランス文学者であり、アンティ・ファシストであり、アヴァンギャルドである豊島与志雄が、時代ばなれしたフロックコートの裾をひるがえし、シルクハットはなしで電車にのる描写から、すでにペソスがにじんでいる。行きついた場面では、すべての事のはこびが・・・ 宮本百合子 「五〇年代の文学とそこにある問題」
・・・そこへ来かかったのは、太った体にガウンをゆさゆさと着、胸に白ネクタイを下げた学生監並にシルクハットにフロック、コオトのブルドック二人である。漫画の題はTRAPPED、大学スケッチ第八。 書簡註。夜の歩道。一人の学生が巡・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・時には磨かれたシルクハットが、時には鳥のようなフロックが。しかし、彼は何事も考えはしなかった。 彼は南方の狭い谷底のような街を見下ろした。そこでは吐き出された炭酸瓦斯が気圧を造り、塵埃を吹き込む東風とチブスと工廠の煙ばかりが自由であった・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫