・・・彼は一月五円の貸間と一食五十銭の弁当とにしみじみ世の中が厭になると、必ずこの砂の上へグラスゴオのパイプをふかしに来る。この日も曇天の海を見ながら、まずパイプへマッチの火を移した。今日のことはもう仕方がない。けれどもまた明日になれば、必ずお嬢・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・ 私が再こう念を押すと、田代君は燐寸の火をおもむろにパイプへ移しながら、「さあ、それはあなた自身の御判断に任せるよりほかはありますまい。が、ともかくもこの麻利耶観音には、気味の悪い因縁があるのだそうです。御退屈でなければ、御話します・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・折からウェエタアが持って来たウイスキイで、ちょいと喉を沾すと、ポケットから瀬戸物のパイプを出して、それへ煙草をつめながら、「もっとも気をつけても、あぶないかも知れない。こう申すと失礼のようだが、それほどあの戦争の史料には、怪しいものが、・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・粟野さんは保吉の教科書を前に、火の消えたパイプを啣えたまま、いつもちょっと沈吟した。それからあたかも卒然と天上の黙示でも下ったように、「これはこうでしょう」と呼びかけながら、一気にその個所を解決した。保吉はこの芝居のために、――この語学的天・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・二人はその汽車の中にグラスゴオのパイプを啣えながら、煙草の話だの学校の話だの幽霊の話だのを交換した。セオソフィストたるタウンゼンド氏はハムレットに興味を持たないにしても、ハムレットの親父の幽霊には興味を持っていたからである。しかし魔術とか錬・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・「いや、配給もあるし、ない時は吸殻をパイプで吸うし、しかし二千円はまず吸うかな」「じゃ、いくら稼いでも皆煙にしてしまうわけだ。少し減らしたらどうだ」「そう思ってるんだが、仕事をはじめると、つい夢中で吸ってしまう。けちけち吸ってい・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・ 午後四時五十五分発横浜行きの列車にわれら二人が駆け込みし時は車長のパイプすでに響きし後なることは貴嬢の知りたもうところのごとし。二郎まず入りてわれこれに続きぬ、貴嬢の姿わが目に入りし時はすでに遅かりき、われら乗りかうるひまもなく汽車は・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・何等の遠い慮もなく、何等の準備もなく、ただただ身の行末を思い煩うような有様をして、今にも地に沈むかと疑われるばかりの不規則な力の無い歩みを運びながら、洋服で腕組みしたり、頭を垂れたり、あるいは薄荷パイプを啣えたりして、熱い砂を踏んで行く人の・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ 西洋にいる間はパイプは手にしなかった。当時ドイツやフランスではそんなに流行っていなかったような気がする。ロンドンの宿に同宿していた何とかいう爺さんが、夕飯後ストーヴの前で旨そうにパイプをふかしながら自分等の一行の田所氏を捉まえて、ミス・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・ 歯の役目は食物を咀嚼し、敵にかみつき、パイプをくわえ、ラッパの口金をくちびるに押しつけるときの下敷きになる等のほかにもっともっと重大な仕事に関係している。それはわれわれの言語を組み立てている因子の中でも最も重要な子音のあるものの発音に・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫