・・・ 唖々子の戯るるが如く、わたしはやがて女中に会計なるものを命じて、倶に陶然として鰻屋の二階を下りると、晩景から電車の通らない築地の街は、見渡すかぎり真白で、二人のさしかざす唐傘に雪のさらさらと響く音が耳につくほど静であった。わたしは一晩・・・ 永井荷風 「十日の菊」
・・・ランスロットは後をも見ずして石階を馳け降りる。 やがて三たび馬の嘶く音がして中庭の石の上に堅き蹄が鳴るとき、ギニヴィアは高殿を下りて、騎士の出づべき門の真上なる窓に倚りて、かの人の出るを遅しと待つ。黒き馬の鼻面が下に見ゆるとき、身を半ば・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 彼は、自分から動く火吹き達磨のように、のたうちまわった挙句、船首の三角形をした、倉庫へ降りる格子床の上へ行きついた。そして静かになった。 暗くて、暑くて、不潔な、水夫室は、彼が「静か」になったにも拘らず、何かが、眼に見えない何かが・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・梯子を下りる音も聞えた。善吉が耳を澄ましていると、耳門を開ける音がして、続いて人車の走るのも聞えた。「はははは、去ッた、去ッた、いよいよ去ッた。これから吉里が来るんだ。おれのほかに客はないのだし、きッとおれのところへ来るんだ。や、走り出・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 秋の海名も無き島のあらはるゝ これより一目散に熱海をさして走り下りるとて草鞋の緒ふッつと切れたり。 草鞋の緒きれてよりこむ薄かな 末枯や覚束なくも女郎花 熱海に着きたる頃はいたく疲れて飢に逼りけれども層楼高・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・ひばりは降りるときはわざと巣からはなれて降りるから飛びあがるとこを見なければ巣のありかはわからない。一千九百二十五年五月六日今日学校で武田先生から三年生の修学旅行のはなしがあった。今月の十八日の夜十時で発って二十三日・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
バスの婦人車掌は、後から後からと降りる客に向って、いちいち「ありがとうございます」「ありがとうございます」と云っています。あれは関西の方からもって来られた風だそうですが、混雑の朝夕、それでなくてさえ切符切りで上気せている小・・・ 宮本百合子 「ありがとうございます」
・・・と云って、小川は変な顔をして、なんと思ったか、それきり電車を降りるまで黙っていた。 小川に分かれて、木村は自分の部屋の前へ行って、帽子掛に帽子を掛けて、傘を立てて置いた。まだ帽子は二つ三つしか掛かっていなかった。 戸は開け放して、竹・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・が、一疋の空腹な雀は、小屋の前に降りると小刻みに霜を蹴りつつ、垂れ下った筵戸の隙間から小屋の中へ這入っていった。 中では、安次が蒲団から紫色の斑紋を浮かばせた怒った肩をそり出したまま、左右に延ばした両手の指を、縊られた鶴の爪のように鋭く・・・ 横光利一 「南北」
・・・まず廊下であるが、板の張り方は日本風でありながら、外側にペンキ塗りの勾欄がついていて、すぐ庭へ下りることができないようになっていた。そうしてこういう廊下に南と東と北とを取り巻かれた書斎と客間は、廊下に向かって西洋風の扉や窓がついており、あと・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫