・・・ 阿闍梨は、白地の錦の縁をとった円座の上に座をしめながら、式部の眼のさめるのを憚るように、中音で静かに法華経を誦しはじめた。 これが、この男の日頃からの習慣である。身は、傅の大納言藤原道綱の子と生れて、天台座主慈恵大僧正の弟子となっ・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・横の方から誰やらが中音で声を掛けた。 広間の隅の、小さい衝立のようなものの背後で、何物かが動く。椅子の上の体は依然として顫えている。 異様な混雑が始まる。人が皆席を立って動く。八方から、丁度熱に浮かされた譫語のような、短い問や叫声が・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 奴は聞き覚えの節になり、中音でそそりながら、くるりと向うむきになったが早いか、ドウとしたたかな足踏して、「わい!」 日向へのッそりと来た、茶の斑犬が、びくりと退って、ぱっと砂、いや、その遁げ状の慌しさ。 四・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・とヒラリと素裸になって、寝衣に着かえてしまって、 やぼならこうした うきめはせまじ、と無間の鐘のめりやすを、どこで聞きかじってか中音に唸り出す。 幸田露伴 「貧乏」
・・・それから身体が生れ代ったように丈夫になって、中音の音声に意気な錆が出来た。時々頭が痛むといっては顳へ即功紙を張っているものの今では滅多に風邪を引くこともない。突然お腹へ差込みが来るなどと大騒ぎをするかと思うと、納豆にお茶漬を三杯もかき込んで・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・と、呼ぶ声が走ッて来る。「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を顰めた。 ばたばたと走ッて来た草履の音が小万の室の前に止ッて、「花魁、ちょいと」と、中音に呼んだのは、小万の新造のお梅だ。「何だよ」「ちょいと・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ エルリングは、俯向いたままで長い螺釘を調べるように見ていたが、中音で云った。「冬は中々好うございます。」 己はその顔を見詰めて、首を振った。そして分疏のように、こう云った。「余計な事を聞くようだが、わたしは小説を書くものだから・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫