・・・道太は何だかいっぱい入っている乱れ函の上にある、二捲の反物に目をつけた。「これ? 何だかこんなもの置いていったんですけれど。何というお品や」お絹は起きあがってその反物を持ちだしながら、「わたし一反だけ羽織にしようかと思って。やがて大阪へ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・「一方に靡きそろひて花すゝき、風吹く時そ乱れざりける」で、事ある時などに国民の足並の綺麗に揃うのは、まことに余所目立派なものであろう。しかしながら当局者はよく記臆せなければならぬ、強制的の一致は自由を殺す、自由を殺すはすなわち生命を殺すので・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・もしこれが自分の家であったら、見知らぬ人に寝起のままの乱れた髪や汚れた顔を見せずとも済むものを、宿屋に泊る是非なさは、皺だらけになった寝衣に細いシゴキを締めたままで、こそこそと共同の顔洗い場へ行かねばならない。 洗場の流は乾く間のない水・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・やがて朱塗の団扇の柄にて、乱れかかる頬の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫りの中に躍り入る。「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・匂うがごとき揉上げは充血くなッた頬に乱れかかッている。袖は涙に濡れて、白茶地に牛房縞の裏柳葉色を曇らせている。島田髷はまったく根が抜け、藤紫のなまこの半掛けは脱れて、枕は不用もののように突き出されていた。 善吉はややしばらく瞬きもせず吉・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・一 父母が女子の為めに配偶者を求むるは至極の便利にして、其間に本人の自由を妨ぐることなきに似たれども、今一歩を進むれば社会全体に男女交際法の区域を広くし、之を高尚にし、之を優美にし、所謂和して乱れざるの佳境に進めて自由自在ならしめんこと・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・解すべからざるものをも解し、文に書かれぬものをも読み、乱れて収められぬものをも収めて、終には永遠の闇の中に路を尋ねて行くと見える。(中央の戸より出で去り、詞の末のみ跡に残る。室内寂として声無し。窓の外に死のヴァイオリンを弾じつつ過ぎ行くを見・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・判者が外の人であったら、初から、かぐや姫とつれだって月宮に昇るとか、あるいは人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居たというような、凄い趣向を考えたかもしれぬが、判者が碧梧桐というのだから先ず空想を斥けて、な・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・燃え叫ぶ六疋は、悶えながら空を沈み、しまいの一疋は泣いて随い、それでも雁の正しい列は、決して乱れはいたしません。 そのとき須利耶さまの愕ろきには、いつか雁がみな空を飛ぶ人の形に変っておりました。 赤い焔に包まれて、歎き叫んで手足をも・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・が乱れとんで、出所も正体もわからないまま、五・一五、二・二六と人心をかきみだして行って、遂に、無判断無批判にならされた人民を破滅的な戦争に追いこんで行ったいきさつは、こんにちあらわれる二・二六実記と称するものをよんでさえ、よくうかがえます。・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
出典:青空文庫