・・・ 銀座は、たいへんな人出であった。逢う人、逢う人、みんなにこにこ笑っている。「よかった。日本は、もう、これでいいのだよ。よかった。」と兄は、ほとんど一歩毎に呟いて、ひとり首肯き、先刻の怒りは、残りなく失念してしまっている様子であった・・・ 太宰治 「一燈」
・・・ こんなに人出の少ないのは時刻のせいだろうが、これなら、いつかそのうちにスケッチでも描きに来るといいという気がした。 四、五日たってから、ある朝奮発して早起きして、電車が通い始めると絵具箱を提げて出かけた。何年ぶりかで久し振りに割引・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・やがて背中に紗の翼のはえた、頭に金の冠を着た子供の天使が二人出て来て基督孩児の両側に立つ。天使の一人はたいへん咳が出て苦しそうで背中の翼がふるえているが、それでも我慢して一生懸命にすましている。そして大きなかわいい目をして私の顔を珍しそうに・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・ 広小路の松坂屋へはいって見ると歳末日曜の人出で言葉通り身動きの出来ない混雑である。メリヤスや靴下を並べた台の前には人間の垣根が出来てその垣根から大小色々な無数の手が出てうごめきながら商品をつまぐり引っぱり揉みくたにしている。どの手の持・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
・・・縁日の人出が三人四人と次第にその周囲に集ると、爺さんは煙管を啣えて路傍に蹲踞んでいた腰を起し、カンテラに火をつけ、集る人々の顔をずいと見廻しながら、扇子をパチリパチリと音させて、二、三度つづけ様に鼻から吸い込む啖唾を音高く地面へ吐く。すると・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ 街は人出で賑やかに雑鬧していた。そのくせ少しも物音がなく、閑雅にひっそりと静まりかえって、深い眠りのような影を曳いてた。それは歩行する人以外に、物音のする車馬の類が、一つも通行しないためであった。だがそればかりでなく、群集そのものがま・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 日が暮れて、すべてのデモが解散した後も、ここはまだ一杯の人出である。レーニン廟の板がこいの壁画をめぐって、イルミネーションがともされた。 有名な昔の首切台の中には、雲つくような労働者の群像が飾られている。 強烈なアーク燈に照ら・・・ 宮本百合子 「インターナショナルとともに」
・・・ 一昨日の早慶戦では、住んでいるところが外苑から近いので、夕方五時すぎ用があって外出したら、後から後からひどい群集で、電車にものれず、暫く往来でこの人出を見物しておりました。そしたら、もう早速暴行問題で、いやな心持です。新聞で見た応援の・・・ 宮本百合子 「現実の問題」
・・・芝生の上はかなりの人出で、毛氈の上に重箱を開いて酒を飲んでいる連中が幾組もあった。大人の遊山の様がいかにも京都らしい印象を彼等に与えた。 円山の方へ向って行く。往来が疎らになった彼方から、女が二人来た。ぼんやり互の顔が見分けられる近さに・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ 夜一時近く赤い広場は煌々たるイルミネーションと人出だ。朝から夕方までおびただしい人間の足の下にあった赤い広場の土はもうぽくぽくになっている。夜気の中でもそのほとぼりと亢奮がさめ切っていないところどころで、臨時施設の飲料水道の噴水があふ・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
出典:青空文庫