・・・頬の恐ろしく膨れた、大きなどてらを着た人相のよくない男が艫の甲板の蓆へ座をしめてボーイの売りに来た菓子を食っている。その向いに坐った目の赤いじいさんと相撲の話をしている。あるいは相撲取かも知れぬが髪は二月前に刈ったと云う風である。その隣には・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・と伝通院の坊主を信仰するだけあって、うまく人相を見る。「御前の方がどうかしたんだろう。先ッきは少し歯の根が合わないようだったぜ」「私は何と旦那様から冷かされても構いません。――しかし旦那様雑談事じゃ御座いませんよ」「え?」と思わ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・すこぶる真面目な顔をしているが、早く当番を済まして、例の酒舗で一杯傾けて、一件にからかって遊びたいという人相である。塔の壁は不規則な石を畳み上げて厚く造ってあるから表面は決して滑ではない。所々に蔦がからんでいる。高い所に窓が見える。建物の大・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ひとり私塾においては、遠近の人相集り、その交際ただ読書の一事のみにて他に関係なければ、たがいにその貴賤貧富を論ずるにいとまあらず。ゆえに富貴は貧賤の情実を知り、貧賤は富貴の挙動を目撃し、上下混同、情意相通じ、文化を下流の人に及ぼすべし。その・・・ 福沢諭吉 「学校の説」
・・・ 坂を下りて提灯が見えなくなると熊手持って帰る人が頻りに目につくから、どんな奴が熊手なんか買うか試に人相を鑑定してやろうと思うて居ると、向うから馬鹿に大きな熊手をさしあげて威張ってる奴がやって来た。職人であろうか、しかし善く分らぬ。月が・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・この女は初め下向いて眼を塞いで居たが、その眼を少しずつ明けながらその顔を少しずつあげると、段々すさまじい人相になって、遂に髪の逆立った三宝荒神と変ってしもうた。荒神様が消えると耶蘇が出て来た。これは十字架上の耶蘇だと見えて首をうなだれて眼を・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・ 或女の人相 そのひとはどこが変っているというのではないが 目玉が丸く黒くなったようで 瞼の間にある艷やかさが ぬけてしまっている。寂しく不安なような表情、紅がついている小さい口がよく動き たっぷりした頬に白粉が・・・ 宮本百合子 「情景(秋)」
・・・どんな人がもって行ったか、その人相を想像するよすがもない。私は、父の顔を見た途端、困っちゃったと云った、時計をなくしちゃった、と云った。泣けないけれども、そういう時は、頬っぺたがとけたような心持であった。 これの代りに、程経ってから両蓋・・・ 宮本百合子 「時計」
・・・あの記事で、これはありつけるぞととりいそぎ紋付袴を一着に及んだ人相よからぬ職業的一団のあったことも時節柄明らかである。 今月の雑誌は、引つづき世間の興味をうけついで何かの形で東郷侯令嬢の女給ぶりを記事にしているのである。或る読売雑誌には・・・ 宮本百合子 「花のたより」
・・・ 個性は、たとえていえば人相のようなものである。一、二の特徴を捕えることは出来るが、微妙な線や表情になると到底詳しく説明することは出来ない。しかも詳しく見れば見るほど他とは異なっている。最も特徴のない平凡な顔でも決して他と同一ではない。・・・ 和辻哲郎 「自己の肯定と否定と」
出典:青空文庫