・・・「伯母さんだって世帯人だもの、今頃は御飯時で忙しいだろうよ」と言ったものの、あまり淋しがるので弟達を呼ぶことにしました。 弟達が来ますと、二人に両方の手を握らせて、暫くは如何にも安心したかの様子でしたが、末弟は試験の結果が気になって落ち・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・そして女が帰り仕度をはじめた今頃、それはまた女の姿をあらわして来るのだ。「電車はまだあるか知らん」「さあ、どうやろ」 喬は心の中でもう電車がなくなっていてくれればいいと思った。階下のおかみは「帰るのがお厭どしたら、朝まで寝と・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・しかし吉田は誰もみな一日の仕事をすましてそろそろ寝ようとする今頃になって、半里もある田舎道を医者へ行って来てくれとか、六十も越してしまった母親に寝ずについていてくれとか言うことは言い出しにくかった。またそれを思い切って頼む段になると、吉田は・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・老人といえば升屋の老人は今頃誰を対手に碁を打っていることやら。 六兵衛は又こう言った「先生は一度妻を持たことが有るに違いなかろう」「どうして知れる」「どうしてチュウて、それは老人の眼には知れる」「全く有ったよ、然し余程以・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・「内地に居りゃ、今頃、野良から鍬をかついで帰りよる時分だぜ。」「あ、そうだ。もう芋を掘る時分かな。」「うむ。」「ああ、芋が食いたいなあ!」 そして坂本はまたあくびをした。そのあくびが終るか終らないうちに、彼は、ぱたりと丸・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・「そうだ、あたりまえなら、今頃、あの橇で辷っている時分だ!」 彼は、ふと、こんなことを考えた。 伍長は、手箱の湯呑をいじっていたが、観音経は忘れたかのように口にしなかった。「俺ゃ、また銃を持てえ云うたって、どうしろ云うたって・・・ 黒島伝治 「氷河」
ガラーリ 格子の開く音がした。茶の間に居た細君は、誰かしらんと思ったらしく、つと立上って物の隙からちょっと窺ったが、それがいつも今頃帰るはずの夫だったと解ると、すぐとそのままに出て、「お帰りなさいまし。」と、ぞ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ こんなところを今頃うろつくのは、哀れな鳥か獣か。小鳥では無いまでも、いずれ暖い洞窟が待っているのでは無い獣でもあるか。 薄筵の一端を寄せ束ねたのを笠にも簑にも代えて、頭上から三角なりに被って来たが、今しも天を仰いで三四歩ゆるりと歩・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・この家のあるじが写真のままの顔して出て来られて、はじめての挨拶をかわしたのであったが、私には、はじめての人のようにも思われず、おととしの春にふと私から遠ざかっていった友人の久保君も、三四年まえのたしか今頃の季節に、きのう深田久弥に逢って来た・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・もしこれで何事もなく別れてしまったら、おそらく今頃は熊さんの事などはとうに忘れてしまったかもしれぬが、ただ一つの出来事のあったため熊さんの面影は今も目について残っている。 一夜浜を揺がす嵐が荒れた。 嵐の前の宵、客のない暗い二階の欄・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫