・・・夜に大学へ行き、朝には京王線の新築された小さい停車場の、助役さんの肩書で、べんとう持って出掛けます。この助役さんは貴方へ一週間にいちどずつ、親兄弟にも言わぬ大事のことがらを申し述べて、そうして、四週間に一度ずつ、下女のように、ごみっぽい字で・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・無数の黒色の旅客が、この東洋一とやらの大停車場に、うようよ、蠢動していた。すべて廃残の身の上である。私には、そう思われて仕方がない。ここは東北農村の魔の門であると言われている。ここをくぐり、都会へ出て、めちゃめちゃに敗れて、再びここをくぐり・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・そのとしの暑中休暇に、故郷へ帰る途中、汽車がそのASという温泉場へも停車したので、私は、とっさの中に覚悟をきめ、飛鳥の如く身を躍らせて下車してしまった。 その夜、私は浪と逢った。浪は、太って、ずんぐりして、ちっとも美しくなかった。私は、・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・ トンネルを出て、電車の速力がやや緩くなったころから、かれはしきりに首を停車場の待合所の方に注いでいたが、ふと見馴れたリボンの色を見得たとみえて、その顔は晴れ晴れしく輝いて胸は躍った。四ツ谷からお茶の水の高等女学校に通う十八歳くらいの少・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・前の方の線路を見るとそこから日比谷まで十数台も続いて停車している。乗客はゾロゾロ下り始めたが、私はゆっくり腰をかけていた。すると私の眼の前で車掌が乗客の一人と何かしら押問答を始めた。切符の鋏穴がちがっているというのである。 この乗客は三・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・たまたま停まる停車場に下りる人もなければ乗る人もない。低い綿雲が垂れ下がって乙供からは小雨が淋しくふり出した。野辺地の浜に近い灌木の茂った斜面の上空に鳶が群れ飛んでいた。近年東京ではさっぱり鳶というものを見たことがなかったので異常に珍しくな・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・ そんなことを考えているうちに人形町辺の停留場へ来るとストップの自働信号でバスはしばらく停車した。安全地帯に立っていた中年の下町女が何気なしにバスの間を覗いていたがふと自分の前の少女を見付けてびっくりしたような顔をして穴の明くほど見詰め・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・ 停車場へ着いてポンペイ行きに乗る。客車の横腹に Fumatori と大きく書いてあるのを、行く先の駅名かと思ったら、それは喫煙車という事であった。客車の中は存外不潔であった。汽車は江に沿うてヴェスヴィオのふもとを走って行った、ふもとか・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・――高島貞喜は、学生たちが停車場から伴ってきたが、黒い詰襟の学生服を着、ハンチングをかぶった小男は、ふとい鼻柱の、ひやけした黒い顔に、まだどっかには世なれない少年のようなあどけなさがあった。「フーン、これがボルか」 会場の楽屋で、菜・・・ 徳永直 「白い道」
・・・昭和廿二年十月 ○ 松杉椿のような冬樹が林をなした小高い岡の麓に、葛飾という京成電車の静な停車場がある。 線路の片側は千葉街道までつづいているらしい畠。片側は人の歩むだけの小径を残して、農家の生垣が柾木・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
出典:青空文庫