・・・ このとき、煙突の傍らに、しょんぼりと立っていた一本の柳の木がありました。いままで黙って煙突のいうことを聞いていましたが、急に太陽に向かって、訴えるようにいいました。「お日さま、どうか私のいうことをお聞きください。私は、この寒さで、・・・ 小川未明 「煙突と柳」
・・・ 私は乳母に手を引かれて、あっちこっちと見て歩く内に、ふと社の裏手の明き地に大勢人が集まっているのを見つけました。 側へ寄って見ると、そこには小屋掛もしなければ、日除もしてないで、唯野天の平地に親子らしいお爺さんと男の子が立っていて・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・ 家を出て、表門の鳥居をくぐると、もう高津表門筋の坂道、その坂道を登りつめた南側に「かにどん」というぜんざい屋があったことはもう知っている人はほとんどいないでしょう。二つ井戸の「かにどん」は知っている人はいても、この「かにどん」は誰も知・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 隣のの側に銃もある、而も英吉利製の尤物と見える。一寸手を延すだけの世話で、直ぐ埒が明く。皆打切らなかったと見えて、弾丸も其処に沢山転がっている。 さア、死ぬか――待ってみるか? 何を? 助かるのを? 死ぬのを? 敵が来て傷を負ったおれ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
一 掃除をしたり、お菜を煮たり、糠味噌を出したりして、子供等に晩飯を済まさせ、彼はようやく西日の引いた縁側近くへお膳を据えて、淋しい気持で晩酌の盃を嘗めていた。すると御免とも云わずに表の格子戸をそうっと開け・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・彼が顔を洗う前足の横側には、毛脚の短い絨氈のような毛が密生していて、なるほど人間の化粧道具にもなりそうなのである。しかし私にはそれが何の役に立とう? 私はゴロッと仰向きに寝転んで、猫を顔の上へあげて来る。二本の前足を掴んで来て、柔らかいその・・・ 梶井基次郎 「愛撫」
・・・ 砂山が急に崩げて草の根で僅にそれを支え、其下が崕のようになって居る、其根方に座って両足を投げ出すと、背は後の砂山に靠れ、右の臂は傍らの小高いところに懸り、恰度ソハに倚ったようで、真に心持の佳い場処である。 自分は持て来た小説を懐か・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・しかしよくしたもので、男性は女性を圧迫するように見えても、だんだんと女性を尊敬するようになり、そのいうことをきくようになり、結局は女性に内側から征服されていく。社会の進歩というものは、ある意味で、この男性が女性の霊の力に征服されてきた歴史な・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・両側の扉から憲兵が、素早く手を突き出して、掴まえるだろう。彼は、外界から、確然と距てられたところへ連れこまれた。そこには、冷酷な牢獄の感じが、たゞよっていた。「なんでもない。一寸話があるだけだ。来てくれないか。」病院へ呼びに来た憲兵上等兵の・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・と、浅く日の射している高い椽側に身を靠せて話しているのはお浪で、此家はお浪の家なのである。お浪の家は村で指折の財産よしであるが、不幸に家族が少くって今ではお浪とその母とばかりになっているので、召使も居れば傭の男女も出入りするから朝夕など・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
出典:青空文庫