・・・が開く時分に、先刻から場席を留守にしていたお絹が、やっと落ち著いた顔をして、やってきた。「お芳さんがあすこに立っていたから、行って見てきましたの。いい塩梅に平場の前の方を融通してくれたんですよ」「そう。お芳さんも久しく見ないが、どこ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・ おど、おどしている女房に、こう云った利平は、先刻までの、自信がすっかりなくなってキョロキョロしていた。 徳永直 「眼」
・・・わたくしは先刻茶を飲んだ家の女に教えられた改正道路というのを思返して、板塀に沿うて其方へ行って見ると、近年東京の町端れのいずこにも開かれている広い一直線の道路が走っていて、その片側に並んだ夜店の納簾と人通りとで、歩道は歩きにくいほど賑かであ・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・と先刻の対手が喚びかけた。太十はまたごろりとなった。「おっつあん縛ったぞ」 三次の声で呶鳴った。「いいから此れ引っこ抜くべ」という低い声が続いて聞えた。「おっつあん此のタンボク引っこぬくかんな」 其声が太十の耳に・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・しかるに先刻から津田君の容子を見ると、何だかこの幽霊なる者が余の知らぬ間に再興されたようにもある。先刻机の上にある書物は何かと尋ねた時にも幽霊の書物だとか答えたと記憶する。とにかく損はない事だ。忙がしい余に取ってはこんな機会はまたとあるまい・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・方角や歩数等から考えると、私が、汚れた孔雀のような恰好で散歩していた、先刻の海岸通りの裏辺りに当るように思えた。 私たちの入った門は半分丈けは錆びついてしまって、半分だけが、丁度一人だけ通れるように開いていた。門を入るとすぐそこには塵埃・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 二 平田は先刻から一言も言わないでいる。酒のない猪口が幾たび飲まれるものでもなく、食いたくもない下物をむしッたり、煮えつく楽鍋に杯泉の水を加したり、三つ葉を挾んで見たり、いろいろに自分を持ち扱いながら、吉里がこちら・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・これは先刻風呂に這入った反動が来たのであるけれど、時機が時機であるから、もしやコレラが伝染したのであるまいかという心配は非常であった。この梅干船(この船は賄が悪いのでこの仇名が我最期の場所かと思うと恐しく悲しくなって一分間も心の静まるという・・・ 正岡子規 「病」
・・・するとその若い人が怒ってね、『引っ張るなったら、先刻たがらいで処さ来るづどいっつも引っ張らが。』と叫んだ。みんなどっと笑ったね。僕も笑ったねえ。そして又一あしでもう頂上に来ていたんだ。それからあの昔の火口のあとにはいって僕は二時間ねむっ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 楽しいような、悲しいような心持が、先刻座敷を見ていた時から陽子の胸にあった。「あの家案外よさそうでよかった。でも、御飯きっとひどいわ、家へいらっしゃいよ、ね」 大理石の卓子の上に肱をついて、献立を書いた茶色の紙を挾んである金具・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
出典:青空文庫