・・・「まあお入りなさい」彼は少し酒の気の廻っていた処なので、坐ったなり元気好く声をかけた。「否もうこゝで結構です。一寸そこまで散歩に来たものですからな。……それで何ですかな、家が定まりましたでしょうな? もう定まったでしょうな?」「・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 帰って鞄を開けて見たら、どこから入ったのか、入りそうにも思えない泥の固りが一つ入っていて、本を汚していた。 梶井基次郎 「路上」
・・・辰弥も今は相対う風色に見入りて、心は早やそこにあらず。折しも障子はさっと開きて、中なる人は立ち出でたるがごとし。辰弥の耳は逸早く聞きつけて振り返りぬ。欄干にあらわれたるは五十路に近き満丸顔の、打見にも元気よき老人なり。骨も埋もるるばかり肥え・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・それに町の出口入り口なれば村の者にも町の者にも、旅の者にも一休息腰を下ろすに下ろしよく、ちょっと一ぷくが一杯となり、章魚の足を肴に一本倒せばそのまま横になりたく、置座の半分遠慮しながら窮屈そうに寝ころんで前後正体なき、ありうちの事ぞかし。・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・中にも念仏信者の地頭東条景信は瞋恚肝に入り、終生とけない怨恨を結んだ。彼は師僧道善房にせまって、日蓮を清澄山から追放せしめた。 このときの消息はウォルムスにおけるルーテルの行動をわれわれに髣髴せしめる。「道善御房は師匠にておはし・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ それは、維新後の当初に於ては、おくれて発達した資本主義国として、既に帝国主義的段階への過渡期に入りつゝあった世界資本主義に対抗するため軍備の力が必要だった。しかし、その軍事的性質は、国民的解放の意義が失われ過ぎ去った後までも存続し、日・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・殿は一度お入りになってお茶など召させらるる。準備が尊いのはここで。かねて十分に作りおいたる竜なら竜、虎なら虎をそこに置き、前の彫りかけを隠しおく。殿復びお出ましの時には、小刀を取って、危気無きところを摩ずるように削り、小々の刀屑を出し、やが・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・が一の手と逆茂木製造のほどもなくさらさらと衣の音、それ来たと俊雄はまた顫えて天にも地にも頼みとするは後なる床柱これへ凭れて腕組みするを海山越えてこの土地ばかりへも二度の引眉毛またかと言わるる大吉の目に入りおふさぎでござりまするのとやにわに打・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・「どうして広岡先生のような人がこんな地方へ入り込んで来たものでしょう」「それは、君、誰も知らない――」 塾の門前に近いところで、二人は学士に追い附いた。 朝顔の話はそこでも学士の口から出た。「高瀬さん、今朝も咲きましたよ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・その王女を世界中の王さまや王子が、だれもかれもお嫁にほしがって、入りかわりもらいに来ました。 しかし王女は、どんなりっぱな人のところから話があっても、厭だ、と言って、はねつけてしまいました。 世界中の王さまや王子たちは、それでもまだ・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
出典:青空文庫