・・・ 三 苟くも狂愚にあらざる以上、何人も永遠・無窮に生きたいとは言わぬ、而も死ぬなら天寿を全くして死にたいというのが、万人の望みであろう、一応は無理ならぬことである。 左れど天命の寿命を全くして、疾病もなく、負傷も・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・それは全く天裕だった。――今日は忘れるぞ。 雨戸がせわしく開いて、娘さんが梯子を駈け上がって行く。俺は知らずに息をのんでいた。 畜生! 何んてことだ、又忘れてやがらない! 俺たちはがっかりしてしまった。「六号!」 その時、看・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・どッとゝ番町今井谷を下りまして、虎ノ門を出にかゝるとお刺身にお吸物を三杯食ったので胸がむかついて耐りませんから、堀浚いの泥と一緒に出ていたを、其の方がだん/″\掻廻したので泥の中から出たんで、全く天から其の方に授かったところの宝で、図らず獲・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・二人はこんな出発点のそもそもから全く別のものを持って生まれて来た画家の卵のようにも見えた。 次郎は画作に苦しみ疲れたような顔つきで、癖のように爪をかみながら、「どうも、糞正直にばかりやってもいけないと思って来た。」「お前のはあん・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・私は一体どうして日々を送っているか。全くのその日暮し、その時勝負でやっているのだろうか。あながちそうでもないようである。事実、自分の日常生活を支配しているものは、やっぱり陳い陳い普通道徳にほかならない。自分の過去現在の行為を振りかえって見る・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・「王女は全く世界中で一ばん美しい人にそういありません。今でもちゃんと生きてお出でになります。けれども世界の一ばんはての遠いところにおいでになるのです。そこまでいくには第一に大きな船がいります。それも、すっかりマホガニイの木でこしらえて、・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・それでも博士は、意に介しなさることなく、酔客ひとりひとりに、はは、おのぞみどおり、へへへへ、すみません、ほほほ、なぞと、それは複雑な笑い声を、若々しく笑いわけ、撒きちらして皆に挨拶いたし、いまは全く自信を恢復なされて、悠々とそのビヤホールを・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・遼陽方面の砲声も今まで盛んに聞こえていたが、いつか全くとだえてしまった。 二人連れの上等兵が追い越した。 すれ違って、五、六間先に出たが、ひとりが戻ってきた。 「おい、君、どうした?」 かれは気がついた。声を挙げて泣いて歩い・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・あらゆる直接経験から来る常識の幻影に惑わされずに純理の道筋を踏んだのは、数学という器械の御蔭であるとしても、全く抽象的な数学の枠に万象の実世界を寸分の隙間もなく切りはめた鮮やかな手際は物理学者としてその非凡なえらさによるものと考えなければな・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・しかし当局者も全く無霊魂を信じきれぬと見える、彼らも幽霊が恐いと見える、死後の干渉を見ればわかる。恐いはずである。幸徳らは死ぬるどころか活溌溌地に生きている。現に武蔵野の片隅に寝ていたかくいう僕を曳きずって来て、ここに永生不滅の証拠を見せて・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
出典:青空文庫