・・・止水明鏡のごとくにあらゆるものの姿をその有りのままに写すことができなければならない。武芸の達人が夜半の途上で後ろから突然切りかけられてもひらりと身をかわすことができる、それと同じような心の態度を保つことができなくては、瞬時の間に現われて消え・・・ 寺田寅彦 「「手首」の問題」
・・・ 帰りの汽車では忘れずに農園のチューリップと、チューリップの農園の概観を網膜に写すことによって往路の小発見の満足を蒸し返し完成することを忘れなかった。 関八州が急に狭くなったような気がして帰って来たが、東京駅から駒込までの馴れた道筋・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・恥ずかしき紅と恨めしき鉄色をより合せては、逢うて絶えたる人の心を読むべく、温和しき黄と思い上がれる紫を交る交るに畳めば、魔に誘われし乙女の、我は顔に高ぶれる態を写す。長き袂に雲の如くにまつわるは人に言えぬ願の糸の乱れなるべし。 シャロッ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・隣りの御嬢さんも泣き、写す文章家も泣くから、読者は泣かねばならん仕儀となる。泣かなければ失敗の作となる。しかし筆者自身がぽろぽろ涙を落して書かぬ以上は御嬢さんが、どれほど泣かれても、読者がどれほど泣かれなくても失敗にはならん。小供が駄菓子を・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・その代りその書きぶりや事件の取扱方に至っては本来がただありのままの姿を淡泊に写すのであるから厭味に陥る事は少ない。厭味とか厭味でないとかいう事は前にも芸術上の批判であると御断りしておきましたが、これが同時に徳義上の批判にもなるからして自然主・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・彼らの精神作用について微妙な細い割り方をして、しかもその割った部分を明細に描写する手際がなければ時勢に釣り合わない。これだけの眼識のないものが人間を写そうと企てるのは、あたかも色盲が絵をかこうと発心するようなものでとうてい成功はしないのであ・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・それからノートを借りて写すような手数をする男でも無かった。そこで試験前になると僕に来て呉れという。僕が行ってノートを大略話してやる。彼奴の事だからええ加減に聞いて、ろくに分っていない癖に、よしよし分ったなどと言って生呑込にしてしまう。其時分・・・ 夏目漱石 「正岡子規」
・・・そこは今も猶鏡の如く輝やいて面にあたるものは必ず写す。ウィリアムの顔も写る。ウィリアムの甲の挿毛のふわふわと風に靡く様も写る。日に向けたら日に燃えて日の影をも写そう。鳥を追えば、こだまさえ交えずに十里を飛ぶ俊鶻の影も写そう。時には壁から卸し・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・沙翁はクラレンス公爵の塔中で殺さるる場を写すには正筆を用い、王子を絞殺する模様をあらわすには仄筆を使って、刺客の語を藉り裏面からその様子を描出している。かつてこの劇を読んだとき、そこを大に面白く感じた事があるから、今その趣向をそのまま用いて・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・あるいはまた、その反射するにあたりて、実物のこの一方に対しては真形を写すべけれども、かの一方の真をば写すべからざることもあらん。然るときは、その二物の軽重緩急を察して、まず重大にして急なるものを写さざるべからず。 されば今の日本政府も、・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
出典:青空文庫