・・・が、彼の思索や行為はいつの間にか佯りの響をたてはじめ、やがてその滑らかさを失って凝固した。と、彼の前には、そういった風景が現われるのだった。 何人もの人間がある徴候をあらわしある経過を辿って死んでいった。それと同じ徴候がおまえにあらわれ・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・自由の利く者は誰しも享楽主義になりたがるこの不穏な世に大自由の出来る身を以て、淫欲までを禁遏したのは恐ろしい信仰心の凝固りであった。そして畏るべき鉄のような厳冷な態度で修法をはじめた。勿論生やさしい料簡方で出来る事ではない。 政元は堅固・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・とりわけ、多少でも小説に関心持っているらしい人たちが、笠井さんの傍にいるときなどは、誰も、笠井さんなんかに注意しているわけはないのに、それでも、まるで凝固して、首をねじ曲げるのさえ、やっとである。以前は、もっと、ひどかった。あまりの気取りに・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・もっと凝固して、濃い感じである。いかにも、兇暴の相である。とぐろを巻いて、しかも精悍な、ああ、それは蝮蛇そっくりである。私の眉にさえ、刺されるような熱さを覚えた。火事は、異様の臭気がする。鰊を焼くとき、あんな臭いがする。なまぐさい。所詮は、・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・竹羊羹というのは青竹のひと節に黒砂糖入り水羊羹をつめて凝固させたものである。底に当たる節の隔壁に錐で小さな穴を明けておいて開いた口を吸うと羊羹の棒がなめらかに抜け出して来る、それを短く歯でかみ切って食う、残りの円筒形の羊羹はちょっと吹くとま・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・手首が硬直凝固の状態になっていてはキューのまっすぐなピストン的運動が困難であるのみならず、種々の突き方に必要なキューの速度加速度の時間的経過を自由に調節することも不可能であるように見える。特に軽快な引き球などのできるとできないは主としてこの・・・ 寺田寅彦 「「手首」の問題」
・・・空気がゼラチンか何かのように凝固したという気がする。その凝固した空気の中から絞り出されるように油蝉の声が降りそそぐ。そのくせ世間が一体に妙にしんとして静かに眠っているようにも思われる。じっとしていると気がちがいそうな鬱陶しさである。この圧迫・・・ 寺田寅彦 「夕凪と夕風」
・・・マルグリットの文学の真似のしようのない美しさ純粋さは、視力を失うほど生活とたたかい、その苦しい生活の中にも理想をもって人間らしく生きようとした思いの凝固ったものとして作品の中に溢れている。 日本でも女の人ならお針だけは出来るからと、お針・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・ざらざらした白っぽい巌の破片に混って硫黄が道傍で凝固していた。烈しい力で地層を掻きむしられたように、平らな部分、土や草のあるところなど目の届く限り見えず、来た方を振りかえると、左右の丘陵の巓に、僅か数本の躑躅が遅い春の花をつけているばかりだ・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・あれ等の歌も遺した人々の心の全部を其のような激情が占領していて、花を見ても月を見ても、純粋に花の美しさ月の輝かしさを愛せなかった不幸を、超脱しようとしない心の凝固が、芸術品としての歌に、渾然とした命を与えていないらしい。 これは、まるで・・・ 宮本百合子 「新緑」
出典:青空文庫