・・・「ああ言う商売もやり切れないな。」 僕は何か僕自身もながらみ取りになり兼ねない気がした。「ええ、全くやり切れませんよ。何しろ沖へ泳いで行っちゃ、何度も海の底へ潜るんですからね。」「おまけに澪に流されたら、十中八九は助からない・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・ちょうど七十二になる彼の父はそこにかかるとさすがに息切れがしたとみえて、六合目ほどで足をとどめて後をふり返った。傍見もせずに足にまかせてそのあとに※いて行った彼は、あやうく父の胸に自分の顔をぶつけそうになった。父は苦々しげに彼を尻目にかけた・・・ 有島武郎 「親子」
・・・立花は怯めず、臆せず、驚破といわば、手釦、襟飾を隠して、あらゆるものを見ないでおこうと、胸を据えて、静に女童に従うと、空はらはらと星になったは、雲の切れたのではない。霧の晴れたのではない、渠が飾れる宝玉の一叢の樹立の中へ、倒に同一光を敷くの・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・サッサッと鎌の切れる音ばかり耳に立ってあまり話するものもない。清さんはお袋と小声でぺちゃくちゃ話している。満蔵はあくびをしながら、「みんな色気があるからだめだ。省作さんがいれば、おとよさんもはま公も唄もうたわねいだもの」 満蔵は臆面・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・びっくりした看護婦が、どうしたんや問うたにも答えもせず、右の手を出してそッと左の肩に当って見たら二三のとこで腕が木の株の様に切れて、繃帯をしてあった。――この腕だ。」 と、友人は左の肩を動かした。「如何に君自身は弱くっても、君の腕は・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・寒月の咄に由ると、くれろというものには誰にでも与ったが、余り沢山あったので与り切れず、その頃は欲しがるものもまた余りなかったそうだ。ところが椿岳の市価が出ると忽ちバッチラがいで持ってってしまって、梵雲庵には書捨ての反古すら残らなかった。椿岳・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・と、子供はいって、小舎の入り口から、くりのまりのような、毛ののびたくびを出して、空の景色をながめると、林の間から、雲切れのした、青い空の色が、すがすがしく見られたのです。そして、たかの空を舞って鳴く声が聞こえました。「いってみろ! いっ・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
・・・畳はどんなか知らぬが、部屋一面に摩切れた縁なしの薄縁を敷いて、ところどころ布片で、破目が綴くってある。そして襤褸夜具と木枕とが上り口の片隅に積重ねてあって、昼間見るととても体に触れられたものではない。私はきゅうに自分の着ている布団の穢さが気・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・若し綱が切れて高い所から落っこちると、あたい死んじまうよ。よう。後生だから勘弁してお呉れよ。」 いくら子供がこう言っても、爺さんは聞きませんでした。そうして、唯早くしろ早くしろと子供をせッつくばかりでした。 子供は為方なしに、泣く泣・・・ 小山内薫 「梨の実」
・・・ すると、もう私は断り切れず、雨戸のことで諒解を求める良い機会でもあると思い、立って襖をあけた。 その拍子に、粗末な鏡台が眼にはいった。背中を向けて化粧している女の顔がうつっていた。案の定脱衣場で見た顔だった。白粉の下に生気のない皮・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫