・・・ 馬鹿気ただけで、狂人ではないから、生命に別条はなく鎮静した。――ところで、とぼけきった興は尽きず、神巫の鈴から思いついて、古びた玩弄品屋の店で、ありあわせたこの雀を買ったのがはじまりで、笛吹はかつて、麻布辺の大資産家で、郷土民俗の趣味・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・……ご機嫌よくこうやってござらっしゃる処を見ると、間違えごともなかったの、何も、別条はなかっただね。」「ところが、おっさん、少々別条があるんですよ。きみたちの仕事を、ちょっと無駄にしたぜ。一杯買おう、これです、ぶつぶつに縄を切払った。」・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
九月二十五日――撫順 今度の事変で、君は、俺の一家がどうなったか、早速手紙を呉れた。今日、拝見した。――心配はご無用だ。別条ない。 俺は、防備隊に引っぱり出された。俺だけじゃない。中学三年の一郎までが引っぱり出され・・・ 黒島伝治 「防備隊」
・・・「うちの市三、別条なかったか。」 市三は、影も形も彼の眼に這入らなかった。井村は、眼を伏せて、溜息をして、松ツァンの傍を病院の方へ通りぬけた。「市三、別条なかったかな?」 不安に戦慄した松ツァンの声が井村の背後で、又、あとか・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・それでも、あるいはそのおかげで、からだに別条はなかった。 滞欧中の夏はついに暑さというものを覚えなかったが、アメリカへ渡っていわゆる「熱波」の現象を体験することを得た。五月初旬であったかと思う。ニューヨークの宿へ荷物をあずけて冬服のまま・・・ 寺田寅彦 「夏」
・・・それでともかくも生命に別条がなくて今日までは過ぎて来た。 それで結局これから私はどうしたらいいのだろう。 厄年の峠を越えようとして私は人並に過去の半生涯を振り返って見ている。もう昼過ぎた午後の太陽の光に照らされた過去を眺めている・・・ 寺田寅彦 「厄年と etc.」
・・・どっちを家業にしたって命に別条はないにきまっているが、どっちへ行っても労力は同じだとは云われません。人力車を挽く方が汗がよほど多分に出るでしょう。自動車の御者になってお客を乗せれば――もっとも自動車をもつくらいならお客を乗せる必要もないが―・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・私はこれで、二人は命に別条なかろうと云う確信に近いものを持ち得た。私と彼等二人との心の繋りは深くおろそかなものではない。万一彼等の生命に何事かあったのなら、昨夜、あんなのびやかな眠りは決して得なかったに違いない。 ほんの瞬をする間に此等・・・ 宮本百合子 「私の覚え書」
出典:青空文庫