・・・そうしてその抽斗から、剃刀の箱を取り出した。「牧野め。牧野の畜生め。」 お蓮はそう呟きながら、静に箱の中の物を抜いた。その拍子に剃刀のにおいが、磨ぎ澄ました鋼のが、かすかに彼女の鼻を打った。 いつか彼女の心の中には、狂暴な野性が・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 相手は無頓着にこう云いながら、剃刀を当てたばかりの顋で、沼地の画をさし示した。流行の茶の背広を着た、恰幅の好い、消息通を以て自ら任じている、――新聞の美術記者である。私はこの記者から前にも一二度不快な印象を受けた覚えがあるので、不承不・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・ 自分で自分を自殺しうる男とはどうしても信じかねながら、もし万一死ぬことができたなら……というようなことを考えて、あの森川町の下宿屋の一室で、友人の剃刀を持ってきて夜半ひそかに幾度となく胸にあててみた……ような日が二月も三月も続いた。・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・不精で剃刀を当てないから、むじゃむじゃとして黒い。胡麻塩頭で、眉の迫った渋色の真正面を出したのは、苦虫と渾名の古物、但し人の好い漢である。「へい。」 とただ云ったばかり、素気なく口を引結んで、真直に立っている。「おお、源助か。」・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・「ああ……もう一呼吸で、剃刀で、……」 と、今視めても身の毛が悚立つ。……森のめぐりの雨雲は、陰惨な鼠色の隈を取った可恐い面のようで、家々の棟は、瓦の牙を噛み、歯を重ねた、その上に二処、三処、赤煉瓦の軒と、亜鉛屋根の引剥が、高い空に・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 拳を握って、屹と見て、「お澄さん、剃刀を持っているか。」「はい。」「いや、――食切ってくれ、その皓歯で。……潔くあなたに上げます。」 やがて、唇にふくまれた時は、かえって稚児が乳を吸うような思いがしたが、あとの疼痛は鋭・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・このウ細い方一挺がア、定価は五銭のウ処ウ、特別のウ割引イでエ、粗のと二ツ一所に、名倉の欠を添えまして、三銭、三銭でエ差上げますウ、剪刀、剃刀磨にイ、一度ウ磨がせましても、二銭とウ三銭とは右から左イ……」 と賽の目に切った紙片を、膝にも敷・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・商売道具の剃刀も売ってしまったのかと、金を渡すと、ニコニコして帰って行ったが、それから十日たったある夜更け、しょんぼりやって来た姿見ると、前よりもなお汚くなっていた。どうしたんだと訊くと、いや喜んで貰いたい、自分のような男にも女房になってや・・・ 織田作之助 「世相」
・・・の隣にある剃刀屋の通い店員で、朝十時から夜十一時までの勤務、弁当自弁の月給二十五円だが、それでも文句なかったらと友達が紹介してくれたのだ。柳吉はいやとは言えなかった。安全剃刀、レザー、ナイフ、ジャッキその他理髪に関係ある品物を商っているのだ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選りに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわか・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
出典:青空文庫