・・・「狐の剃刀とか雀の鉄砲とか、いい加減なことをよく言うぜ」「なんだ、その植物ならほんとうにあるんだよ」「顔が赤いよ」「不愉快だよ。夢の事実で現実の人間を云々するのは。そいじゃね。君の夢を一つ出してやる」「開き直ったね」・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・太陽は剃刀のようにトマトの畠の上に冴えかえっていた。村の集会所の上にも、向うの、白い製薬会社と、発電所が、晴れきった空の下にくっきりと見られるS町にも、何か崩れつゝあるものと、動きつゝあるものとが感じられた。 僕には、兄が何をやっている・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・然しこの理髪師はニキビであろうが、何んであろうが、上から下へ一気に剃刀を使って、それをそり落してしまった。 俺がヒリ/\する頬を抑えていると、ニヤ/\笑いながら、「こゝは銀座の床屋じゃないんだからな。」 と云った。 ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・彼女は家の方に居た時分、妙に家の人達から警戒されて、刃物という刃物は鋏から剃刀まで隠されたと気づいたことがよくある。年をとったおげんがつくづくこの世の冷たさを思い知ったのは、そういう時だった。その度に彼女は悲しさや腹立しさが胸一ぱいに込み上・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・風呂へ入って、悠々と日本剃刀で髯を剃るんだ。傷一つつけたことが無い。俺の髯まで、時々剃られるんだ。それで帰って来たら、又一仕事だ。落ちついたもんだよ。」 これも亦、嘘であります。毎晩、私が黙って居ても、夕食のお膳に大きい二合徳利がつけて・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・会社を二月休んだ原因は、或る事から、酔の上、職人九人を相手にして、喧嘩をし、ぼくは、十月二十九日、腕を剃刀でわられたのです。その傷が丹毒になり、二月入院しました。喧嘩しながら居眠るほど、酔っていた男を正気の相手が刃物で、而も多人数で切ったの・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・観ると、そまつな日本剃刀で鬚を剃っているのだ。鏡もなしに、薄暗闇のなかで、落ちつき払ってやっているのだ。あのときだけは唸るほど感心した。何千回、何万回という経験が、この老人に鏡なしで手さぐりで顔の鬚をらくらくと剃ることを教えたのだ。こういう・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・たとえば月を断ち切る雲が、女の目を切る剃刀を呼び出したり、男の手のひらの傷口から出て来る蟻の群れが、女の腋毛にオーバーラップしたりする。そういう非現実的な幻影の連続の間に、人間というものの潜在的心理現象のおそるべき真実を描写する。この点でこ・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・ Skt. kshura は剃刀。krit は切るであるとすると不思議はない。 おもしろいことは、土佐で自分の子供の時代に、紙鳶の競揚をやる際に、敵の紙鳶糸を切る目的で、自分の糸の途中に木の枝へ剃刀の刃をつけたものを取り付ける。この・・・ 寺田寅彦 「言葉の不思議」
・・・ そのテント生活中にN先生に安全剃刀でひげを剃ってもらったのを覚えている。それは剃刀が切れ味があまりよくなくて少し痛かったせいもあるが、それまで一度も安全剃刀というものの体験をもたなかったためにそれがたいそう珍しく新しく感じられたせいも・・・ 寺田寅彦 「詩と官能」
出典:青空文庫