千に一つ
多くの中のわずか一つ。きわめてまれなことにいう。万に一つ。「—の勝ち目もない」
千も万もいらぬ
あれやこれやと言うには及ばない。千も万も論は無用。「さあ—、あの縄解いて主 (ぬし) 返しや」〈浄・兜軍記〉
せんしょうあん【千少庵】
[1546〜1614]安土桃山時代の茶人。和泉の人。利休の女婿。母は利休の後妻宗恩。子は宗旦。法号、宗淳。千家を再興、利休の死後不審庵を継いだ。
せんそうえき【千宗易】
⇒千利休 (せんのりきゅう)
せんそうさ【千宗左】
[1619〜1672]江戸前期の茶人。表千家の祖。宗旦の三男。号、江岑 (こうしん) ・逢源斎。不審庵に住み、紀州徳川家に仕えた。「江岑夏書 (げかき) 」の覚書を残す。以後、表千家宗家は代々宗左を名のる。
せんそうしつ【千宗室】
[1622〜1697]江戸前期の茶人。裏千家の祖。宗旦の四男。号、仙叟 (せんそう) ・朧月庵。宗旦の今日庵を継承して、裏千家とよばれる。加賀前田家に仕えた。以後、裏千家宗家は代々宗室を名のる。
せんそうたん【千宗旦】
[1578〜1659]江戸初期の茶人。利休の孫。号、元伯・咄々斎 (とつとつさい) 。茶道家千家の再興に努めた。子の宗左・宗室・宗守を分家させて、表・裏・武者小路の三千家の基礎を築いた。
せんどうあん【千道安】
[1546〜1607]桃山時代の茶匠。初名は紹安。号は可休斎。利休の長男。利休とともに豊臣秀吉に仕えたが、利休死後、弟少庵がその後を継ぎ、不遇に終わったという。茶室・道具・茶事などに独自の工夫を凝らしたといわれ、道安囲い・道安風炉などにその名が残る。
せんのりきゅう【千利休】
[1522〜1591]安土桃山時代の茶人。堺の人。名は与四郎。宗易 (そうえき) と号す。侘茶 (わびちゃ) の大成者で、千家流の開祖。茶の湯を武野紹鴎 (たけのじょうおう) に学ぶ。草庵風の茶室を完成し、朝鮮の茶碗や日常雑器を茶道具に取り入れ、また楽茶碗の制作・指導などをした。織田信長・豊臣秀吉に仕えたが、のち秀吉の命により自刃。