・・・人格のない作家の作物は、卑近なる理想、もしくは、理想なき内容を与うるのみだからして、感化力を及ぼす力もきわめて薄弱であります。偉大なる人格を発揮するためにある技術を使ってこれを他の頭上に浴せかけた時、始めて文芸の功果は炳焉として末代までも輝・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・籠の鳥の主義は略の最も卑近なるものにして、我輩の感服せざる所なり。又婦人は年若き男子に文通す可らずと言うが如き、無稽も亦甚し。人事忙しき文明世界に文通を禁じられて用を弁ず可きや。夫が繁忙なれば之に代りて手紙往復の必要あり、殊に其病気の時など・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・反射的動作なぞは其卑近の一例で、斯んな心持ちがする……云々と云う事も亦其働きだ。だから識覚の上にのぼって来る思想だけじゃ、到底人間全体の型は付けられない。じゃ、何うすりゃ好いかと云うに、矢張りそりゃ解らんよ。ただ手探りでやって見るんだ。要す・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・識の徒に翫弄せらるるに至って雅語ようやく消滅し俗語ますます用いられ、意匠の野卑と相待って純然たる俗俳句となり了れり、されどその俗語も必ずしも好んで俗語を用いしにあらで、雅語を解せざるがため知らず知らず卑近に流れたるもの、ゆえに彼らが用いる俗・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・女性がひとことはっきり、いやです、といったとき、今日の社会でどれほどの悪と不幸が力を弱められるだろう。卑近な実例で、大蔵次官が収賄して下獄した。ああなるまでにもし彼の細君がはっきりくりかえして、わたしたちの家庭に、いかがわしい洋服はいりませ・・・ 宮本百合子 「今年のことば」
・・・ 現実に対する洞察、理解、働きかけが、外見は全く同一のような二つの本質的に異る現象に対して正当な客観的評価を失ったとしたら、その結果は事実のありようを全然取りちがえることになる。卑近な例をとってここに一人熱を出してねている人があるとする・・・ 宮本百合子 「こわれた鏡」
・・・の年齢であり、文学者の従来の生活には少なかった政治家、軍人等との接触の物珍らしさは、一部の作家が過去に於ては国際的な政治経済知識を著しく欠いていたという一面の無識から受ける驚きと相俟って、意外に安易な卑近な傾倒の感情を引き起していることも見・・・ 宮本百合子 「今日の文学の鳥瞰図」
たとえばこの雑誌も「文化集団」という名をもっているように、われわれの見ききする範囲には非常に多く文化という言葉が使われ、卑近な一例をとれば、アンカにまで文化という名をつけてあやしまないようになっている。ところでその文化とい・・・ 宮本百合子 「今日の文化の諸問題」
・・・う押し出し、主張を見出そうとしているのだという身振りに打ちこめられている作者の執着と熱心が駿介を中心として全篇に漲っているが、それは一つの精神の形式に過ぎないものであるから、生活の細部の行動では日常の卑近なあれこれに主観的な誇張された感慨を・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
・・・ 苦患に背を向け、感傷的に慟哭し、饒舌に告白する。かくしてもまた苦患の終わりを経験することはできる。しかしそれを真に苦しみに堪えたと呼ぶことはできない。 卑近の例を病気に取ってみよう。病苦は病の癒えるまで、あるいは病が生命を滅ぼすま・・・ 和辻哲郎 「ベエトォフェンの面」
出典:青空文庫