・・・高い声でもない、低い声でもない、夜が更けているので存外反響が烈しい。「昨日生れて今日死ぬ奴もあるし」と一人が云うと「寿命だよ、全く寿命だから仕方がない」と一人が答える。二人の黒い影がまた余の傍を掠めて見る間に闇の中へもぐり込む。棺の後を・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・そして尚ボードレエルの言うように、僕もまたそのように、都会の雑沓の中をうろついたり、反響もない読者を相手にして、用にも立たぬ独語などをしゃべって居る。 町へ行くときも、酒を飲むときも、女と遊ぶときも、僕は常にただ一人である。友人と一緒に・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・必ず比較をされなければならないいまの学童たちの内奥からの反響です。 2 狼森と笊森、盗森人と森との原始的な交渉で、自然の順違二面が農民に与えた永い間の印象です。森が子供らや農具をかくすたびに、みんなは「探しに行くぞお」と叫び・・・ 宮沢賢治 「『注文の多い料理店』新刊案内」
・・・ その声はガランとした通りに何べんも反響してそれから闇に消えました。 この人はよほどみんなに敬われているようでした。どの人もどの人もみんな丁寧におじぎをしました。おじいさんはいよいよ声をふりしぼって叫んで行くのでした。「家のなか・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・女はどうも髪が長くて、智慧が短いと辛辣めかして云うならば、その言葉は、社会の封建性という壁に反響して、忽ち男は智慧が短かく、髪さえ短かい、と木魂して来る性質のものであると、民主社会では諒解されているのである。 本誌の、この号には食糧問題・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・ 昔ながらの意味で米に執着する習慣は、この頃の現実で次第に変って来ているのだけれど、現在、米を副食として、という声が私たちの心によびさます反響は、新しい主食となり得るのは何で、それは何処にどんなにして在るのだろうという思いなのである。・・・ 宮本百合子 「「うどんくい」」
・・・心の中には、哀れな孝行娘の影も残らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も残らず、ただ氷のように冷ややかに、刃のように鋭い、いちの最後のことばの最後の一句が反響しているのである。元文ごろの徳川家の役人は、もとより「マルチリウム」という洋語も・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・そこで今日まで文壇がこの事実に対して、どんな反響をしているかと云うと、一般にファウストが汚涜せられたと感じたらしい。それは先ずファウストと云うものはえらい物だと聞いてわけも分からずに集まる衆愚を欺いて、協会が大入を贏ち得たのは、尾籠の振舞だ・・・ 森鴎外 「訳本ファウストについて」
・・・しかし何事かを姙んだ者が、ただその産出の手ぎわと反響とのみに気をとられて、姙まれた物に対する正直と愛とをゆるがせにする事は、きわめて陥りやすい邪路として厳密に警戒されなければならぬ。ただ正直に、必然に従って、愛の力で産む、――そこにのみ真の・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
・・・の存在を失いたる凡俗の心胸に一種異様の反響を与う。小さき胸より胸へと三を数え七十を数え九百を数え千万に至るまで伝わって行く。この波紋が伝説となり神話となり口碑となっていつまでも残る。生命の執着はさらに形を変じ姿を化して日常生活に刻々現われて・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫