・・・日露戦争の時分には何でもロシアの方に同情して日本の連捷を呪うような口吻があったとかであるいは露探じゃないかという噂も立った。こんな事でひどく近所中の感じを悪くしたそうだが、細君の好人物と子供の可愛らしいのとで幾分か融和していたらしい。子供は・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・雪江が私の机の側へ来て、雑誌などを読んでいるときに、それとなく話しかける口吻によってみると、彼女には幾分の悶えがないわけにはいかなかった。学校を出てから、東京へ出て、時代の新しい空気に触れることを希望していながら、固定的な義姉の愛に囚われて・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・お民の態度は法律の心得がなくては出来ないと思われるほど抜目がなく、又其の言うところは全然共産党党員の口吻に類するものがあった。 書肆博文館が僕に対して版権侵害の賠償を要求して来た其翌日である。正午すこし前、お民は髪を耳かくしとやらに結い・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・然るに主人の口吻は常に家内安全を主とし質素正直を旨とし、その説教を聞けばすこぶる愚ならずして味あるが如くなれども、最大有力の御用向きかまたは用向きなるものに逢えば、平生の説教も忽ち勢力を失い、銭を費やすも勤めなり、車馬に乗るも勤めなり、家内・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・だが、どうして、プロレタリア作家と自分等とをそんなに別々に対立するような口吻で区別するのだろう。 続けて、相手が質問した。「あなた、ロシアの田舎を知っていますか?」「大してよく知ってはいないが、あっちこっち旅行はしました」「・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・の政談傍聴禁止がしかれるまで、成田梅子、村上半子、景山英子らの活溌な動きがあったのだが、岸田俊子にしろ当時の自由党員中島長城と結婚してからは、自分の過去の政治活動をあまりよろこばしい回想とはしていない口吻であったことが語られている。俊子の生・・・ 宮本百合子 「女性の歴史の七十四年」
・・・ 私のようなものが、お前にお礼を云うのさえ、ほんとなら有難すぎることなのだという口吻が、ありありと言葉の端々に現われているけれども、禰宜様宮田はちっとも不当な態度だと思わなかったのみならず、彼女がほのめかす通り、お礼などを云われるのはも・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・半分、いやいや恩にきせたような母上の口吻を、自分は下等に感じた。彼女が自分の口から、来るな、会わない、と迄云い切ったのを、今更取り消し、折れることが、如何に、性格として不可能かは判って居る。其故、彼女を立て、此方から、被来って下さいと云うの・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・そして殆ど大人の前に出た子供のような口吻で、声低く云った。「所詮父と妥協して遣る望はあるまいかね。」「駄目、駄目」と綾小路は云った。 綾小路は背をあぶるように、煖炉に太った体を近づけて、両手を腰のうしろに廻して、少し前屈みになって立・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 犬塚が教えて遣るという口吻で答えた。「どうしたもこうしたもないさ。あの連中の目には神もなけりゃあ国家もない。それだから刺客になっても、人を殺しても、なんのために殺すなんという理窟はいらないのだ。殺す目当になっている人間がなんの邪魔にな・・・ 森鴎外 「食堂」
出典:青空文庫