・・・二人が同時に右手を挙げたと思うと手のさきからぱっと白い煙が出る。するとその一人は柱を倒すようにうつむきに倒れる。夜明けの光が森の上に拡がって、露の草原に虫が鳴いている。 草原がいつともなく海に変る。果もない波の原を分けて行く船の舷側にも・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・そう言って彼はまた右手の方を指しながら、「あれが和田岬です」「尼ヶ崎から、あすこへ軍兵の押し寄せてくるのが見えるかしら」私は尼ヶ崎の段を思いだしながら言った。「あれが淡路ですぜ。よくは見えませんでしょうがね」 私は十八年も前・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・小春の日和をよろこび法華経寺へお参りした人たちが柳橋を目あてに、右手に近く見える村の方へと帰って行くのであろう。 流の幅は大分ひろく、田舟の朽ちたまま浮んでいるのも二、三艘に及んでいる。一際こんもりと生茂った林の間から寺の大きな屋根と納・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 竹籠に熱き光りを避けて、微かにともすランプを隔てて、右手に違い棚、前は緑り深き庭に向えるが女である。「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠に張って、縫いにとりましょ」と云いながら、白地の浴衣に片足をそと崩せば、小豆皮の座布団を・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・(右手扉の方へ行かんとする時、死あらわれ、徐に垂布を後にはねて戸口に立ちおる。ヴァイオリンは腰に下げ、弓を手に持ちいる。驚きてたじたじと下る主人を、死は徐まあ、何という気味の悪い事だろう。お前の絃の音はあれほど優しゅう聞えたのに、お前の姿を・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・五月廿日 *いま窓の右手にえぞ富士が見える。火山だ。頭が平たい。焼いた枕木でこさえた小さな家がある。熊笹が茂っている。植民地だ。 *いま小樽の公園に居る。高等商業の標本・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・はるか左側に雄大な奥羽山脈をひかえ、右手に秋田の山々が見える。その間の盆地数十里の間、行けど、行けど、青々と茂った稲ばかりである。 関東の農村は、汽車でとおっても、雑木林をぬけたところには畑があり、そこでヒエが穂を出しているかと思うと、・・・ 宮本百合子 「青田は果なし」
・・・どれ汲みようを教えて上げよう。右手の杓でこう汲んで、左手の桶でこう受ける」とうとう一荷汲んでくれた。「ありがとうございます。汲みようが、あなたのお蔭で、わかったようでございます。自分で少し汲んでみましょう」安寿は汐を汲み覚えた。 隣・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・高田が梶の右手に寝て、栖方が左手で、すぐ眠りに落ちた二人の間に挟まれた梶は、寝就きが悪く遅くまで醒めていた。上半身を裸体にした栖方は蒲団を掛けていなかった。上蒲団の一枚を四つに折って顔の上に乗せたまま、両手で抱きかかえているので、彼の寝姿は・・・ 横光利一 「微笑」
・・・シナの玉についての講義の時に、先生は玉の味が単に色や形にはなくして触覚にあることを説こうとして、適当な言葉が見つからないかのように、ただ無言で右手をあげて、人さし指と中指とを親指に擦りつけて見せた。その時あのギョロリとした眼が一種の潤いを帯・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
出典:青空文庫