・・・夏草の上に置ける朝露よりも哀れ果敢なき一生を送った我子の身の上を思えば、いかにも断腸の思いがする。しかし翻って考えて見ると、子の死を悲む余も遠からず同じ運命に服従せねばならぬ、悲むものも悲まれるものも同じ青山の土塊と化して、ただ松風虫鳴のあ・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ 哀れな人間がここにいる。 哀れな女がそこにいる。 私の眼は据えつけられた二つのプロジェクターのように、その死体に投げつけられて、動かなかった。それは死体と云った方が相応しいのだ。 私は白状する。実に苦しいことだが白状する。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・平田がよんどころない事情とは言いながら、何とか自分をしてくれる気があッたら、何とかしてくれることが出来たりそうなものとも考える傍から、善吉の今の境界が、いかにも哀れに気の毒に考えられる。それも自分ゆえであると、善吉の真情が恐ろしいほど身に染・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・見あぐれば千仞の谷間より木を負うて下り来る樵夫二人三人のそりのそりとものも得言わで汗を滴らすさまいと哀れなり。 樵夫二人だまつて霧をあらはるゝ 樵夫も馬子も皆足を茶屋にやすむればそれぞれにいたわる婆様のなさけ一椀の渋茶よりもなお・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・(亦何だか哀れに云って外へ出たらしい音がした。 あとはもう聞えないくらいの低い物言いで隣りの主人からは安心に似たようなしずかな波動がだんだんはっきりなった月あかりのなかを流れて来た。そして富沢はまたとろとろした。次々うつるひるのたくさん・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・ 陽子はコーンビーフの罐を切りかけた、罐がかたく容易に開かない、木箱の上にのせたり畳の上に下したり、力を入れ己れの食いものの為に骨を折っているうちに陽子は悲しく自分が哀れで涙が出そうになって来た、家庭を失った人間の心の寂寥があたりの夜か・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・心の中には、哀れな孝行娘の影も残らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も残らず、ただ氷のように冷ややかに、刃のように鋭い、いちの最後のことばの最後の一句が反響しているのである。元文ごろの徳川家の役人は、もとより「マルチリウム」という洋語も・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・妻の顔は、花瓣に纏わりついた空気のように、哀れな朗かさをたたえて静まっていた。 ――恐らく、妻は死ぬだろう。 彼は妻を寝台の横から透かしてみた。罪と罰とは何もなかった。彼女は処女を彼に与えた満足な結婚の夜の美しさを回想しているかのよ・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・をジット抱〆ようとして、モウそれも叶わぬほどに弱ったお手は、ブルブル震えていましたが、やがて少し落着て……、落着てもまだ苦しそうに口を開けて、神に感謝の一言「神よ、オオ神よ、日々年々のこの婢女の苦痛を哀れと見そなわし、小児を側に、臨終を遂さ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・根の枯れるのを閑却して、ただ花のみ咲かせようとあせる人ほど、ばかげた哀れなものはないだろう。 しかしその哀れな人々が、大きい顔をして、さも生きがいありそうに働いている。七お前の生を最もよく生きるために、お前の苦し・・・ 和辻哲郎 「ベエトォフェンの面」
出典:青空文庫